福井県里山里海湖研究所

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中村 亮のコラム
  • 成28年12月11日(日)に美浜町生涯学習センターなびあすにて、明日の例大祭を考える意見交換会が開催されました。
    (主催:明日の例大祭を考える会議・福井県里山里海湖研究所、後援:美浜町・美浜町教育委員会)
    チラシ表
    チラシ裏

     
    プログラム
    開会のあいさつ(彌美神社・高木氏子総代)
    趣旨説明(里山里海湖研究所・中村研究員)
    祭礼学習の発表会映像鑑賞(美浜中央小学校6年)
    獅子舞ミニ講座(追手門学院大学・橋本教授)
    意見交換会(モデレーター:橋本教授)
    閉会のあいさつ(彌美神社・田中宮司)

     
    日の例大祭を考える会議と福井県里山里海湖研究所では、彌美神社(美浜町)の例大祭*の継承や、例大祭・祭礼文化を軸とした地域づくりに関わる活動を昨年よりおこなっています。
    今回の「意見交換会」は、これまで実施してきた地域での「大勉強会**」をふまえ、参加者全員で、例大祭の将来について話し合い、課題を再認識し共有することを目的として開催されました。
    当日はあいにくの天候にも関わらず、彌美神社の氏子の約1割にあたる70名ほどの参加者がありました。
    また、祭礼を軸とした地域づくりに関心をもつ地域外(敦賀市、若狭町、名田庄など)の方々の参加もありました。

    *彌美神社の例大祭: 「5月まつり」「宮代まつり」と呼ばれ親しまれており、当社の縁起を形にしたものといわれ、耳川上流の大日原のヨボの木に御神の御幣が天降り、当社に祀られた。その故事に基づき行われるお祭で、「一本幣・七本幣」を始め「御膳」と呼ばれる稲穂・魚・斧・鎌など農林水産業に関わる物を始め様々な物を象った餅の奉納や一本幣から大御幣にに御霊を移す「幣迎え」、その大御幣を神輿の代わりにして奉納する「幣押し」と呼ばれる神事があり、又「王の舞」(県無形文化財)・「獅子舞」等が奉納され、一日中賑やかに神事が執り行われ多くの参拝者が訪れる。(彌美神社HPより引用)
    **大勉強会:明日の例大祭を考える会議と里山里海湖研究所の共催により、彌美神社例大祭について住民の理解を深めるために、集落ごとに講義形式で開催した勉強会。平成28年度は4回開催。講師は追手門学院大学橋本教授が務めた。


    加者は、7つの班に分かれ「ワークショップ」形式で意見交換を行いました。
    多様な議論をまとめながらリードしたのは、追手門学院大学教授の橋本裕之先生でした。
    橋本先生は、彌美神社の祭礼文化について30年以上も研究し、例大祭には毎年参加されています。
    各班の意見交換は、ファシリテーターがついていたものの、実際は、参加者の積極的な発言により推進されました。
    なかでも、彌美神社崇敬会のメンバーの活躍が大きかったものと思います。
    寒い一日だったにも関わらず、部屋の暖房を切らなければならないほど、熱気にあふれた意見交換がなされました!
     
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    美浜中央小学校6年生の祭礼学習発表会の映像鑑賞
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    総合司会の橋本裕之先生

    論においては、日程の問題や少子高齢化、祭礼の意義が薄れつつあることなどによる、人手不足や参加者の減少という現状のなか、「仕事を休みやすい環境の整備」「例大祭についての勉強会の促進」「祭りの道具の確保」「集落を超えた組織づくり」「内外への広報の推進」など、例大祭を守り伝えていくための意見や課題がたくさん提出されました。
    例えば、勉強会については、幅広い世代が参加する事が出来る工夫や、他の地域から移住してきて祭りの事を知らない人や女性を対象とした勉強会の実施、小学校での祭礼学習の継続、祭りについて分かりやすく教える資料の作成などの課題が挙げられました。
    また、例大祭を軸として地域の絆を強めていくために、世代・性別・集落間の祭りに対する「温度差」や「溝」を埋めるような、幅広いネットワーク形成が必要という課題も出ました。

    礼文化の継承は全国的な問題であり、一般的には、祭りの「簡素化」や「負担軽減」などの消極的な議論がなされるなか、今回の意見交換会では、例大祭の品格を守り後世に伝えることを前提とした、前向きで建設的な議論が展開されました。
    地域の人びとが、いかに例大祭を大切に思い、誇りとしているかが証明されたと思います。
    今回、再認識し共有した「課題」について、これからどのように取り組んでいくかが新たな課題となります。
    地域の皆様の取り組みに、今後も福井県里山里海湖研究所は協力していきます。
     
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    7班に分かれ、まずは意見を書き出す参加者
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    参加者の皆様が議論をリード
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    意見まとめでも活発な議論が展開されました
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    各班の代表者による発表、A班
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    B班
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    C班
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    D班
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    E班
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    F班
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    G班
  • 中村 亮
     福井県は面積でみると小さな県であるが(約4190 km2で37/47位)、その中に、山間部、中山間部、平野部、台地、盆地、湿地、河川流域、淡水湖・汽水湖、海洋沿岸などの自然地理がつまっている。これらの多様な自然環境に適応した生活様式が、地域固有のなりわいや食、習俗、祭礼を育むことで、福井県の文化の多様性を生んでいる。
     
     この自然や文化の多様性は、一般的に「嶺北」と「嶺南」という言葉で類型化される。古くは越前国と若狭国から始まり、藩政の時代を経て明治14年(1881年)に福井県が誕生するまで、福井県の北部と南部が地理的にも政治的にも分かれていたことが、現在の嶺北と嶺南の文化的差異の原因の一つである。私は福井県に住んで一年余りだが、現地調査で各地を訪問した経験より、嶺北と嶺南の言葉や食、祭礼などの違いを実感できるようになってきた。

     そんな折、大学の講義で受けた「照葉樹林文化」と「ナラ林文化」の話を思い出した。これはごく簡単に言うと、照葉樹林(カシ、シイ、タブ、クス、ツバキなどの常緑広葉樹)とナラ林(ナラ、ブナ、クリ、カエデなどの落葉広葉樹)の分布地帯には、それぞれに共通する生活文化がある、というものである。照葉樹林文化圏は、ネパール・ヒマラヤの高地から中国華南を経て日本南西部につながる比較的温暖な地域である。一方、ナラ林文化圏は、北方の冷涼な地域である。

     二つの領域図をあらためてみてみると、照葉樹林文化とナラ林文化の境界は、嶺南と嶺北の境界と重なっているようである(図1)。嶺南=照葉樹林文化、嶺北=ナラ林文化と捉えてもよさそうだが、もう少し詳細に植生分布をみると、実際には福井県の沿岸部に照葉樹林が(三国の雄島は照葉樹林の島である)、嶺北を中心とした山地にナラ(ブナ)林が分布していることが分かる(図2)。いずれにせよ福井県は、照葉樹林文化とナラ林文化が共存する日本海側で唯一の場所であり、このことが、比類ない福井県の「多様性」に大きく影響してきたと考えられる。

     

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    (図1)
    東アジアの植生とナラ林文化・照葉樹林文化の領域(佐々木1993)

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    (図2)
    福井県の植生(福井県みどりのデータバンクより引用、福井県自然保護課作成)
    *「緑色」の暖温帯自然植生が照葉樹を含むものである。現在では暖温帯自然植生は沿岸部にまばらに分布するだけだが、かつてはもっと広範囲(暖温帯代償植生の分布域にも重なるように)に分布していたと考えられる。
       
     照葉樹林文化の面白いところは、世界の照葉樹林分布地域に共通の文化要素を見出すことができ、さらに、日本文化の源流を探ることができるという点であろう。佐々木高明先生は、日本における照葉樹林文化の発展段階を、農耕以前の採集・半栽培、雑穀中心の焼畑農耕、水田稲作農耕の三段階に分け、各々の段階に対応する文化要素をあげている(佐々木1993)。ここで私が注目したのが、水田稲作農耕段階の文化要素の一つに「なれずし」があることである。

     なれずしは、水田でとれた淡水魚を保存する方法として開発された食品で、東南アジアを起源とし、稲作とともに日本に伝わってきたとされる(石毛ほか1990)。塩漬けした魚を米飯で漬け込んで成熟させた発酵食品である。発酵をうながす暖かい気候も照葉樹林帯の特徴である。「米」で漬け込むことより、水田地帯が発祥の地であり、水田で獲れる淡水魚を材料としていたという説もうなずける。しかし福井には、沿岸部で海水魚を材料とし、独自の発展を遂げたなれずしが存在する。それが、スローフードジャパンから食の世界遺産ともいわれる「味の箱舟」に認定されてもいる、内外海地区の「鯖のなれずし」である(写真)。

     
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    (写真)森下さんのお宅でごちそうになった鯖のなれずし。大変おいしく写真を撮ることを忘れた結果最後の一切れだけが写っている。
    (2015年1月14日、中村亮撮影)
       


     福井の食文化研究の一環として、田烏在住の森下佐彦さんに何度かお話をうかがった。森下さんたちは2006年に「さばへしこなれずしの会」を結成し、伝統的な鯖のなれずしの製法を守り伝える活動を行っている。廃校となった田烏小学校を再利用して、毎年、子供たちに鯖のなれずしの作り方を教えている(「さとけん日記」の平成26年11月27-28日掲載)。

     田烏の鯖のなれずしの製法については何度も新聞やテレビに取り上げられているので割愛するが(詳細は「たがらす我袖倶楽部ホームページ」を参照してください)、一番の特徴は、他地域のなれずし(琵琶湖の鮒ずし、奥能登のなれずし、和歌山の鯖なれずしなど)が塩蔵魚を材料とするのに対し、田烏のものは、鯖のへしこ(糠漬け)を材料とする点である。気出し(塩抜き)したへしこを米飯(若干麹を混ぜる)で漬ける期間は二週間ほどである。長期間(三ヵ月~三年)飯漬けする鮒ずしとは違い、鯖のなれずしでは米が原型をとどめており、鯖と一緒に米も食べることができる。年末年始や春のお祭りに好んで食されるハレの食事である。

     鯖のなれずしは、米、糠、麹を必要とする、水田農耕に深く関係した食品である。しかし、田烏のような農地面積の少ない沿岸部で、どのようにして米を得ていたのであろうか?そのあたりのことを森下さんに聞くと、昔は、海産物と農作物を交換する地域間の関係があったという。森下さんも子供の頃に、ひと山越えた旧上中の農村に魚を担いで行って、米や野菜と交換していた。毎回訪問するなじみの農家があり、そのようなところは「わらじぬぎ」と呼ばれた。かつては、地域の特産物を交換する、漁村と農村の親密な交流があったのである。

     私は、鯖のなれずしは、このような漁村と農村の交流によって生まれた食品ではなかったろうか、と考えるに至ったが、その真相は定かではない。しかし、海産物、特に若狭湾沿岸では「鯖」が地域経済を支え、地域間交流を担った商品であったことは確かである。巾着網の発祥の地である田烏からもたくさんの鯖が街道をつうじて京へ運ばれたことであろう。先に、照葉樹林文化とナラ林文化が共存していることが福井の多様性に寄与してきたと書いたが、もう一つ、他地域との歴史的な交流も、福井の文化を豊かにしてきた要因であるということを鯖のなれずしから学んだ。


    参考文献
    石川県2007『奥能登のなれずし 調査報告』石川県水産総合センター.
    石毛直道・ケネス ラドル1990『魚醤とナレズシの研究:モンスーン・アジアの食文化』岩波書店.
    上山春平1969『照葉樹林文化:日本文化の深層』中公新書.
    佐々木高明1993『日本の基層文化を探る:ナラ林文化と照葉樹林文化』NHKブックス.

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