福井県里山里海湖研究所

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2015年02月のコラム
  • 北川淳子

    水月湖のボーリング調査


      この夏、福井県が水月湖のボーリング調査を行いました。この目的は、学術調査はもちろん、世界の地質時計となり有名になった水月湖の年縞を広く一般の方々に見てもらうため、完全に連続した年縞を採取し、展示用に加工することです。この目的は100%以上に達成され、うまくいけば数年後には完全に連続した本物の年縞をご覧になれるかと思います。私はこの調査に少なからず関わりました。

     土の採取についてはプロのボーリング会社の方がこちらの、「歪みのない、ひび割れのない」サンプルを、という要求に答え、多大な努力をしてくださいました。この「歪みのない、ひび割れのない」という条件をクリアすることは、湖底の土の硬さの違いがあったり、様々なもの(火山灰、木片など)が含まれていたりで、非常に難しいものですが、それをみごとに達成していただきました。

     採取された柱状の土(コア)はそのままでは単なる棒です。土は1m程度のパイプに入っています。パイプ自体は1m程度ですので、連続したコアは1つの穴からは採取できません。それで2つ目の穴、3つ目の穴と掘り、抜けている部分を補完するわけです。補完されているかどうかを確認するために、上がってきたコアはその場で中を抜き取り、縞々を確認していきます。その後、展示用、研究用に分けていく作業が水月湖湖畔の遊覧船乗り場駐車場のプレハブで行われました。コアの直径は約8㎝。ボーリング調査には多額の費用がかかるので、採取できたものからできるだけ多くの研究用のサンプルを分ける必要があります。また、展示用のものは本当に壊れることなく分けなければなりません。これを壊れることなく、きれいに切り分けるのも大変難しい作業です。立命館大学の中川毅教授はこれを様々な道具を開発・作成して難関を突破しました。展示用はコアの幅いっぱいに、研究用はそれぞれの目的に合わせた幅で分けていきます。そして、今回の目的で分けたあとの残りは、サンプルが酸化してしまわないように真空パックをして、冷蔵庫に順に入れていきます。

     多くの人の手がかかり、現在、展示用のサンプルは展示用に加工されるのを待ち、研究用のサンプルはまだ冷蔵庫に保管され研究されるのを待っています。水月湖のサンプルは大変学術的に価値の高いものです。年縞があること、年縞の下にも土はたまっていて、それが19万年以上にもなります。過去19万年分もの土をためている湖は少なく、地質時計の世界基準であるこの土をさらに研究することで、世界各地の他の湖沼の土の年代をさらに正確に測定できるようになり、また、過去の気候変動、これからの気候変動の予測ができることが期待できます。

     

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    写真1 水月湖ボーリング調査の筏と櫓。作業員がボーリング作業をしています。
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     写真2 手製の道具でコアを切り分ける立命館大学中川毅教授
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    写真3 ボーリング作業が終わると筏は岸に上げ、解体し、クレーンでトラックに積み込みます。
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     写真4 1か月半、水月湖に浮かべられていたため、多くの生物が筏に付着、または入り込んでいました。
     

    北潟湖ボーリング調査


     水月湖の年縞は貴重なものですが、それだけでは過去の環境をすべて語れません。地域差もあり、それぞれの文化、歴史があります。そこで、水月湖だけでなく、他の湖沼の調査を実施します。もちろん、水月湖のような年縞はありませんが、水月湖の年代が基準となり、他の湖沼も年代が決まっていきます。また、復元された環境を比較することで、人間の活動による環境への影響が見えてきます。そこで、平成26年12月7日~12月10日に北潟湖でボーリング調査を行いました。
     

     天候は悪く、雨が降りましたが、調査は順調に進み、よいサンプルがとれました。
     調査メンバーは次の通りです。
      ・北川淳子(福井県里山里海湖研究所)
      ・篠塚良嗣(立命館大学)
      ・吉田明弘(明治大学)

     北潟漁協の人に船を出してもらいました。船を出していただいた方は、辻下氏(組合長)と山岸氏(理事)です。

     12月7日には調査地点の下調べとして、水深と緯度経度を測定し、最終的なボーリング地点を決定しました。その場所には目印として竹を刺しておきました。
     調査地点は図に示しています。
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     12月8日の朝、福井新聞と県民福井の人に取材を受け、調査の概要を説明した後に、ボーリング調査を始めました。8日と9日で5地点のコアを採取しましたが、地点4は最も上流で、過去の谷の部分であったせいか、底は浅く、170cmまでしか採取できませんでした。もっとも深かったのは地点3でした。地点3では、深さ530cmまで採取できました。しかしながら、年代測定の試料などとれたり、貝層などがはいっていたりして、面白そうなのは地点1でした。地点1はさらに深く掘れないかと2回、掘ってみましたが、2回目もほとんど同じ深さまでしかほれませんでした。地点5は前日の予備調査で下が他よりかなり固かったのですが、どうもこの硬い層は貝の層のようです。江戸時代にはカキの養殖があったということですが、年代測定の結果などでないとはっきりは分かりませんが、ひょっとするとカキの養殖の層かもしれません。

     この2日間に採取された土は現在、研究所の冷蔵庫の中にあり、花粉分析を中心に行い、北潟湖周辺の過去の景観の変化を見て行く予定です。

     この周辺の環境に大きな影響を与えたと考えられる一つの出来事は製塩です。北潟湖近くでは製塩炉が発見され、新聞にもでました。そこで、12月10日には、北潟湖近くの細呂木阪東山遺跡を視察しました。県の埋蔵文化財調査センターの細呂木阪東山遺跡の担当者の白川氏より説明を受けました。残念ながら炉はすでに調査が済みなくなっていました。その代わりに、製塩のためにたくさんの火を炊いた痕ともいえる炭片のたくさん含まれた真黒な平安時代の層が見られました。この活動は北潟湖の土の中に記録されていると考えられるため、分析結果が楽しみです。
     

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    写真1 目印の竹
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    写真2 ロシア式ピートサンプラーによるコアの採取。とても力が要ります。
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    写真3 貝の層を含むコア。江戸時代のカキの養殖の痕跡の可能性。ボーリング地点5より。
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     写真4 黒い平安時代の層
  • 中村 亮
     福井県は面積でみると小さな県であるが(約4190 km2で37/47位)、その中に、山間部、中山間部、平野部、台地、盆地、湿地、河川流域、淡水湖・汽水湖、海洋沿岸などの自然地理がつまっている。これらの多様な自然環境に適応した生活様式が、地域固有のなりわいや食、習俗、祭礼を育むことで、福井県の文化の多様性を生んでいる。
     
     この自然や文化の多様性は、一般的に「嶺北」と「嶺南」という言葉で類型化される。古くは越前国と若狭国から始まり、藩政の時代を経て明治14年(1881年)に福井県が誕生するまで、福井県の北部と南部が地理的にも政治的にも分かれていたことが、現在の嶺北と嶺南の文化的差異の原因の一つである。私は福井県に住んで一年余りだが、現地調査で各地を訪問した経験より、嶺北と嶺南の言葉や食、祭礼などの違いを実感できるようになってきた。

     そんな折、大学の講義で受けた「照葉樹林文化」と「ナラ林文化」の話を思い出した。これはごく簡単に言うと、照葉樹林(カシ、シイ、タブ、クス、ツバキなどの常緑広葉樹)とナラ林(ナラ、ブナ、クリ、カエデなどの落葉広葉樹)の分布地帯には、それぞれに共通する生活文化がある、というものである。照葉樹林文化圏は、ネパール・ヒマラヤの高地から中国華南を経て日本南西部につながる比較的温暖な地域である。一方、ナラ林文化圏は、北方の冷涼な地域である。

     二つの領域図をあらためてみてみると、照葉樹林文化とナラ林文化の境界は、嶺南と嶺北の境界と重なっているようである(図1)。嶺南=照葉樹林文化、嶺北=ナラ林文化と捉えてもよさそうだが、もう少し詳細に植生分布をみると、実際には福井県の沿岸部に照葉樹林が(三国の雄島は照葉樹林の島である)、嶺北を中心とした山地にナラ(ブナ)林が分布していることが分かる(図2)。いずれにせよ福井県は、照葉樹林文化とナラ林文化が共存する日本海側で唯一の場所であり、このことが、比類ない福井県の「多様性」に大きく影響してきたと考えられる。

     

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    (図1)
    東アジアの植生とナラ林文化・照葉樹林文化の領域(佐々木1993)

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    (図2)
    福井県の植生(福井県みどりのデータバンクより引用、福井県自然保護課作成)
    *「緑色」の暖温帯自然植生が照葉樹を含むものである。現在では暖温帯自然植生は沿岸部にまばらに分布するだけだが、かつてはもっと広範囲(暖温帯代償植生の分布域にも重なるように)に分布していたと考えられる。
       
     照葉樹林文化の面白いところは、世界の照葉樹林分布地域に共通の文化要素を見出すことができ、さらに、日本文化の源流を探ることができるという点であろう。佐々木高明先生は、日本における照葉樹林文化の発展段階を、農耕以前の採集・半栽培、雑穀中心の焼畑農耕、水田稲作農耕の三段階に分け、各々の段階に対応する文化要素をあげている(佐々木1993)。ここで私が注目したのが、水田稲作農耕段階の文化要素の一つに「なれずし」があることである。

     なれずしは、水田でとれた淡水魚を保存する方法として開発された食品で、東南アジアを起源とし、稲作とともに日本に伝わってきたとされる(石毛ほか1990)。塩漬けした魚を米飯で漬け込んで成熟させた発酵食品である。発酵をうながす暖かい気候も照葉樹林帯の特徴である。「米」で漬け込むことより、水田地帯が発祥の地であり、水田で獲れる淡水魚を材料としていたという説もうなずける。しかし福井には、沿岸部で海水魚を材料とし、独自の発展を遂げたなれずしが存在する。それが、スローフードジャパンから食の世界遺産ともいわれる「味の箱舟」に認定されてもいる、内外海地区の「鯖のなれずし」である(写真)。

     
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    (写真)森下さんのお宅でごちそうになった鯖のなれずし。大変おいしく写真を撮ることを忘れた結果最後の一切れだけが写っている。
    (2015年1月14日、中村亮撮影)
       


     福井の食文化研究の一環として、田烏在住の森下佐彦さんに何度かお話をうかがった。森下さんたちは2006年に「さばへしこなれずしの会」を結成し、伝統的な鯖のなれずしの製法を守り伝える活動を行っている。廃校となった田烏小学校を再利用して、毎年、子供たちに鯖のなれずしの作り方を教えている(「さとけん日記」の平成26年11月27-28日掲載)。

     田烏の鯖のなれずしの製法については何度も新聞やテレビに取り上げられているので割愛するが(詳細は「たがらす我袖倶楽部ホームページ」を参照してください)、一番の特徴は、他地域のなれずし(琵琶湖の鮒ずし、奥能登のなれずし、和歌山の鯖なれずしなど)が塩蔵魚を材料とするのに対し、田烏のものは、鯖のへしこ(糠漬け)を材料とする点である。気出し(塩抜き)したへしこを米飯(若干麹を混ぜる)で漬ける期間は二週間ほどである。長期間(三ヵ月~三年)飯漬けする鮒ずしとは違い、鯖のなれずしでは米が原型をとどめており、鯖と一緒に米も食べることができる。年末年始や春のお祭りに好んで食されるハレの食事である。

     鯖のなれずしは、米、糠、麹を必要とする、水田農耕に深く関係した食品である。しかし、田烏のような農地面積の少ない沿岸部で、どのようにして米を得ていたのであろうか?そのあたりのことを森下さんに聞くと、昔は、海産物と農作物を交換する地域間の関係があったという。森下さんも子供の頃に、ひと山越えた旧上中の農村に魚を担いで行って、米や野菜と交換していた。毎回訪問するなじみの農家があり、そのようなところは「わらじぬぎ」と呼ばれた。かつては、地域の特産物を交換する、漁村と農村の親密な交流があったのである。

     私は、鯖のなれずしは、このような漁村と農村の交流によって生まれた食品ではなかったろうか、と考えるに至ったが、その真相は定かではない。しかし、海産物、特に若狭湾沿岸では「鯖」が地域経済を支え、地域間交流を担った商品であったことは確かである。巾着網の発祥の地である田烏からもたくさんの鯖が街道をつうじて京へ運ばれたことであろう。先に、照葉樹林文化とナラ林文化が共存していることが福井の多様性に寄与してきたと書いたが、もう一つ、他地域との歴史的な交流も、福井の文化を豊かにしてきた要因であるということを鯖のなれずしから学んだ。


    参考文献
    石川県2007『奥能登のなれずし 調査報告』石川県水産総合センター.
    石毛直道・ケネス ラドル1990『魚醤とナレズシの研究:モンスーン・アジアの食文化』岩波書店.
    上山春平1969『照葉樹林文化:日本文化の深層』中公新書.
    佐々木高明1993『日本の基層文化を探る:ナラ林文化と照葉樹林文化』NHKブックス.
  • 石井 潤

     里山里海湖と聞いて、皆さんはどのような自然を思い浮かべるでしょうか?里山里海湖は、文字通り里の山や海や湖であり、私たちが暮らしている場所にある身近な自然と言い換えることができます。近年、この日本の身近な自然が“SATOYAMA”として世界的に注目されています。

     SATOYAMAに代表される自然環境として、農村地域の自然があります。稲作を行う水田とその周辺にある水路や河川、ため池や草原、森林などを含む自然です。稲作が始まり、現在のような農業技術がなかった頃、水田は河川の氾濫原を利用して作られたと考えられています。当時は、高度な技術がなかったため、自然の状態をうまく利用して稲作を行っていました。
     氾濫原は、大水のときなどに時々冠水する場所です。そういった場所は、水がたくさん必要な水田に適しています。氾濫原では、川や氾濫原の中にできた池から水が引きやすかっただろうと考えられます。もしかしたら、氾濫原にできた小川が水田に水を引くための水路として利用されたかもしれません。氾濫原やその周囲に成立していた草原や森林は、稲作に必要な肥料の採集場所だったり、水田の近くで住む家を建てるための建材などを調達するための場所として利用されました。
     こうして人に利用されながら成立した農村地域の環境は、氾濫原に元々生息・生育していた生きものにとっては、水田が作られる以前の環境とそれほど大きく違っていなかったと考えられます。そのため、氾濫原の豊かな生きものたちは、そのまま生存することができたと考えられます。

     SATOYAMAでは、人々は、そこにある多様な里の恵み(自然資源)を利用して暮らしてきました。その営みは、SATOYAMAの環境を維持することにつながりました。たとえば、屋根をふくのに用いる茅を刈る場所は茅場として管理され、その結果、草原が維持されることになりました。森林では、下草刈りや落ち葉をはじめとした利用や管理によって、落葉樹などの林として長らく保全され利用されてきました。

     このようにSATOYAMAでは、その長い歴史の中で、豊かな生きものと環境が保全されながら、その恵みが利用されてきました。これは、人の不適切な自然資源の利用によって発生する様々な環境問題の解決へのヒントを与えてくれるものと期待されます。SATOYAMAの営みは、将来世代にわたって続く私たちの暮らしにおいて、自然環境を保全し維持しながら、自然資源を持続的に利用していくという考え方を示しています。
     研究所の名前でもある“里山里海湖”は、このような里の自然を大切にしながら上手に利用し、私たちの暮らしに役立てていこうという思いが込められていると思っています。

福井県里山里海湖研究所

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