福井県里山里海湖研究所

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北川淳子のコラム
  • 北川淳子
     3月12日(日)に若狭町で三方五湖の、3月26日(日)にあわら市で北潟湖の研究調査成果の報告会を開きました。北潟湖の報告会ではことのほか多くの方が参加され、大変活発な発言をいただきました。発表の内容を簡単にまとめておきます。

    三方五湖
     東京大学の鈴木氏(3月に博士号を取得し、現在、早稲田大学の助手)は「歴史記録を超える気象台:水月湖年縞刻まれた洪水災害史の解読」との題で発表してもらいました。水月湖の年縞堆積物の洪水記録と気象台などの観測記録を対比して、水月湖の年縞堆積物は正確に洪水を記録して、洪水層の厚さは雨量に比例しているという事を紹介されました。そのことにより、歴史記録にない時代まで遡って三方五湖周辺の洪水の状況についてわかってきそうです。
     島根大学の瀬戸氏は「日向湖における古環境変遷史と過去200年の降水履歴の復元」という題で報告してもらいました。現在の状況から過去に遡って、丁寧に説明していただきました。現在の状況は水温・塩分・濁度・溶存酸素量といった水質調査を行った結果を紹介してもらいました。図示されていて、大変わかりやすいものでした。日向湖の歴史記録では1638年に日向水道が開削されたことで海水になったというはなしでしたが、それ以前から海水湖になっていたということでした。日向湖にも年縞堆積物はあるのですが、水月湖のように何万年も連続はしていません。しかし、上のほうの(最近の)部分ははっきりとした年縞になっていて、江戸時代までカウントしたそうです。三方五湖周辺の降水の特色として、冬の雪による降水と梅雨期と台風期が特異的に多くなります。年縞を詳しくみると、梅雨期と台風期の1年に2回の堆積物を記録している可能性が高いそうです。
     北川は「日向湖の堆積物に残る大水害の痕跡とその植物への影響」というテーマで報告しました。まず、三方五湖周辺ということで、日向湖の分析でなく、三方湖のほうの鳥浜貝塚の終焉について話をしました。鳥浜の終わりの時代も今と同じように気温が高く、降水量が多いので、土砂災害が多く発生し、それを避けて縄文人は活動していたことを紹介しました。そして、昨年度、立命館大学の篠塚氏の発表に、西暦300年、西暦500年と西暦1000年に、菅湖では西暦500年に大洪水が起こったとありましたが、日向湖のほうの洪水のあたりの層を詳細に花粉分析をして、洪水の植物への影響をみてみました。年代は、追加で年代測定したことで昨年度より正確にわかってきて、3世紀半ば、8世紀半ば、15世紀前半となります。水月湖の年縞堆積物にもそれらの洪水が見られます。詳細に花粉分析をすると、3世紀半ばと8世紀半ばの洪水層では、周辺の森が破壊され、その回復に40-50年かかっています。15世紀前半のものでは、低地部は水田であったせいか、森林が大破壊されるという形ではないようです。
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    水月湖の水害について話し始める鈴木氏 熱心に耳を傾ける聴講者


    北潟湖
     島根大学の瀬戸氏は「北潟湖の水質・底質環境の特徴」という題で、8月と1月の北潟湖の水質調査の結果について発表していただきました。北潟湖は湖が橋のところで区切れていて、環境が橋を通過するごとに大きく変化するそうです。レンコンのようだと発表されていました。夏の調査の時、橋を超えるたびに水の色が変化していました。生物生産性では、一番奥側の西南湖は,もっとも生産性が高く,水の流れが悪いそうです。底は夏は温度が低く、酸素がなく、塩分濃度が高いようです。酸素がないため、硫化水素が発生し、真っ黒の泥がたまっています。底にシジミがたくさんいるのですが、大きな個体がほとんどで、シジミの再生産がされているかは不明だそうです。
     立命館大学の篠塚氏は「北潟湖における過去数千年間の古環境変遷史」という題で、堆積物の化学的分析をし、北潟湖の過去の水質変遷を紹介しました。北潟湖では開田橋ができるまで、古くからカキの養殖がされていて、堆積物の中にカキの密集した層が見つかったことは以前に紹介しています。そのカキの層ができた時代は湖が貧酸素であったという結果がでました。貧酸素のためカキが大量に死んだようです。また、北潟湖は汽水湖なのですが、西暦1000年ごろのみ、一時的に湖は淡水化しているようです。後で他の先生方と一緒に話をしていたら、ひょっとすると、湖から海へでる部分が季節風で砂が運ばれふさがれたのではないかという話がでてきました。季節風で砂が運ばれふさがれるのであれば、それは昔から起こっていてもおかしくない話で、その時期だけふさがれるのは変な話です。もう少し年代をはっきり決めないといけないのですが、1000年ごろというと、荘園開発の時代で、水田開発するのに淡水化するのがよくて、毎年、湖と海の間の砂を取り除いていたのを、意図的にやめたのではと勝手に想像しています。
      金沢大学の長谷部氏は「北潟湖の汽水-淡水変化と津波災害の痕跡」という題で発表していただきました。日本海側でも歴史的にみると少なくない地震や津波がやってきています。北潟湖では津波がやってきたのか、堆積物の粒子の粗さや堆積している貝、そして、珪藻(ガラス質の殻をもったプランクトン)の分析で規模はわからないけれど、津波が入ってきた可能性があることを紹介しました。堆積物の粒子の粗さでは津波が入ってきたのでは?という5つの層があり、その層では海の珪藻がたくさん見られたという事です。北潟湖にも津波が入ってくる可能性があります。また、1300年ごろから海水が北潟湖の中心部まで入ってきているという結果が出ていました。1300年頃というと、小氷期と言われる寒い時代に入る時代です。海水準はそれ以前の平安時代の方が高く、この時代は低くなります。海水がこの時期から入るのはおかしな話です。それで、何か人為的に海水をいれたのでは?という話でした。室町時代の後期からカキの養殖をしているという事ですが、それと関わりがあるかもしれません。
     私、北川は「津波?高潮?:北潟湖周辺一時的景観の変化」という題で花粉分析の結果を報告しました。塩づくりで森林がなくなっていき、1100年頃、水田が広がっていく、というのは昨年の話と同じです。しかし、一番海側の堆積物の分析も追加して、海側は江戸時代以前はシダ植物しかないようなはげ山だったという事がわかってきました。それらの結果をよく見ると、何か起こっている痕跡が認められます。まず、天正の地震(1586年)の時の津波の痕跡でないかという変化が花粉で見られました。このぐらいの時代の層の分析では、花粉が全体的に減少するのですが、マツ花粉は減りません。なぜマツのみ減らないのかは不明ですが、周辺の植物が何かで少なくなったのは確かです。また、福井県側ではありませんが、石川県加賀で1712年に農民一揆が起こった記録があります。理由は、塩害や大風で不作が続き、年貢の減免を求めた、というものですが、塩害の痕跡が見つかりました。アカザ科の植物の花粉が増える層があります。アカザ科ですが、このグループの植物は乾燥や塩に強く、海岸沿いでよく見かけられます。その層のみ驚くほど多くのアカザ科の花粉が数えられました。明らかに塩害があったようです。しかし、それも何年も続きません。1年、2年で一揆が起こるほど困窮するとは思えないので、おそらく、その時代、多くの災害に見舞われ、不作が続いたのでしょう。
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    北潟湖の報告会にはたくさんの人に来ていただきました 北潟湖の水質について話をする瀬戸氏
  • 北川淳子
     8月8日と9日に、島根大学の瀬戸先生と香月先生と共同で、北潟漁協の協力のもと、北潟湖の水質と底質の調査をしてきました。湖の北から南にかけて、水温や塩分、酸素、濁度、クロロフィル量などを測っていきました(写真1)。湖はアオコと赤潮が発生していて、透明度が1m以下のところがほとんど。今年は雨が少ないので、発生しやすいそうです。塩尻橋から上流は塩分濃度が低く、アオコが発生し、それより下流は塩分濃度が高く、赤潮が発生していました(写真2~4)。これがくっきり出ていて、見事でした。湖はつながっているのに、どうなっているのか興味がわきます。
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    写真1 船から水質計を下して調査 写真2 発生していたアオコ
     
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    真水を3 水を採取 写真4 場所によってさまざまな色を呈する水

     底質調査のためにエグマンパージ採泥器という道具で、湖底の泥の採取もしました。水質調査では湖の底は酸素が少なく、湖底の泥は真っ黒で臭いだろうと思ったら、そうでもなく、黒いには黒いけれど、臭いは少なめでした(写真5)。仮説としては、この原因は、湖のプランクトンは日中、光合成をして酸素をつくり、底に酸素がいきわたるけれど、夜には呼吸して酸素を使い尽くすために、黒い堆積物になる、というものですが、実際どうなのかはわかりません。夏の暑い時に、朝から晩まで夜通し調査する必要があるそうです。私たちの調査ではそこまでしていません。
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    写真5 エグマンパージ採泥器で採取した湖底の真黒な泥

     結果は、データの整理ができていないので、整理できてからのお楽しみです。
     
  • 北川淳子
     この季節になると、道端にあちこちクズがつるを伸ばしているのを見かけます。日本ではありふれた風景で、昔はこのつるをロープ代わりに使ったり、根からデンプンをとったり、また、薬用(葛根湯)として利用してきました。荒地にはびこり、それなりに邪魔ではあるけれども、日本ではとりあえず有用植物の1つで、空き地なら放置されています。このクズを19世紀後半に日本人が北米に持って行きました。当初は家のフェンスのように利用したり、家畜のえさにしたりしたそうですが、その繁殖力はすさまじく、あちこちに広がり、現在、侵略的外来種に指定されています。ちなみに、クズの花粉は、あれほどたくさん生えているのに、ほとんど湖に堆積していません。個人的には、クズの花の甘い香りが大好きで、クズがなくなったら寂しく思います。
     最近、ケンタッキー州のパインマウンテンというところであった学会に参加してきましたが、ここでもクズの侵略はすさまじいものでした。しかし、日本人にとってなじみのある風景で、山の中にあるだけで、別にそう目くじらたてることもなかろうに、と思うのですが、アメリカ人は侵略されているという気分だそうです。私に、「なぜ日本人はクズを侵略種と考えないんだ?」と聞いてくるアメリカ人も。日本では昔から利用してきて、有用だから、という回答には納得しなかったようです。いろいろ思案したところ、アメリカ人と日本人の思想の違いによるもののように思えてきました。日本人は少々不必要なものがあっても寛容に受け入れる傾向にあるようです。北米では、庭にタンポポが入ってくると、目くじらを立てて引き抜きます。しかし、日本の場合、ああ、タンポポ生えてきた、かわいい、くらいの認識ではないでしょうか。極端な例ですが、北米にはミルクウィードと呼ばれる雑草がありますが、あまりに除去しすぎたために絶滅危惧種になっています。日本人はここまで極端に行動しないと思います。
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    写真1 パインマウンテンで広がるクズ

     さて、学会のあったパインマウンテンですが、アパラチア山脈の一角で、北米ではめずらしく落葉広葉樹の森に覆われていました。ブナと巨大なユリノキがたくさん生え、アメリカでは絶滅危惧種であるクリの木もたくさんありました(写真2)。さて、このクリの木が絶滅危惧種になった理由ですが、日本のクリの木が原因です。1900年ごろ、日本から輸入したクリ材に病原菌がまぎれ、それが広まり、アメリカのクリは絶滅寸前になったそうです。日本のクリはその菌に耐性があり、持っていても問題ないのですが、アメリカのクリには耐性がありません。パインマウンテンではたくさんのクリの木があったのですが、よく見るとみんな若い木でした(写真3)。老樹は病気になりやすいらしく、大きくなる前に、病気でなくても切ってしまうそうです。クリの木の切り株があちこちに見られました。これは日本人的でない、実にアメリカ的な行動と言えそうです。
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    写真2 パインマウンテンの落葉広葉樹林。ユリノキや、ブナ、クリなどが多くみられる。 写真3 パインマウンテンのクリの木。若い木のみが残されている。

     日本でも竹はいろいろ問題を起こしていますが、パインマウンテンにも竹がありました(写真4)。こちらも侵略的外来種です。いつどういう経緯で入ったのかは知りませんが、パインマウンテンの一角に竹ヤブがありました。なかなかいい風景と思ったのですが、現地の人は、竹は困ったものだ、と。学会の期間中の1時間程度、ボランティアで参加者が竹を刈る作業をしました(写真5)。すると、内側が枯れ、外側だけが元気というどうしようもない状態だとわかりました。外から見ると広い土地の一角だけなので、日本人的にはいい感じですが、確かに、内側が枯れて、外へ外へ広がるので、迷惑なものなのだと納得しました。それならば、少しなので、日ごろから管理しておけば公園のよいアクセントになるように思うのですが、芝生のように手入れはせず、迷惑なので、とにかく除去したいようです。人海戦術は有効で、竹やぶの半分がなくなりました。日本の竹ヤブの手入れはこの程度ではなんともならない気がしますが。
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    写真4 学会会場の庭の竹ヤブ。 写真5 ボランティアで竹を除去している。中の方は枯れた竹ばかりが出てきた。

     学会では越前ソバの話をしました。なかなか好評で、寒冷化とソバ栽培の関係がきれいにでているとびっくりしていました。福井にそばを食べ に行きたい、という人が結構いました。
     
  • 北川淳子
     3月13日(日)に若狭町で三方五湖の、3月21日(月)にあわら市で北潟湖の研究調査成果の報告会を開きました。地元の方たちに熱心に聞いていただき、また、質問もたくさんいただきました。報告の内容を簡単にまとめておきます。
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    写真1 三方青年の家での研究報告会


    三方五湖
     まず、現在の三方五湖の水質、湖底の堆積物の状況についての発表がありました。現在、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖は汽水、日向湖は海水と言われています。三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖では、春と夏の終わりの水質が大きく異なり、海からの水が夏には三方湖あたりまでやってきます。冬には海水が三方湖まで流入することがなく、季節ごとに塩分濃度が異なっています。そして、菅湖と日向湖の湖底には酸素がなく、硫化水素が作られ臭い堆積物がたまっています。この状況がいつ成立したかは、堆積物の地質化学的研究からわかってきました。現在の状況が形成されたのはどうも江戸時代の日向水道と浦見川の開削の時のようです。それまでも変化はありましたが、これらの土木工事は三方五湖の水環境に大きな影響を与え、水の流れも変化させたようです。
     大きな災害も過去にたびたび起こったようです。堆積物の分析から、日向湖では西暦300年、西暦500年と西暦1000年に、菅湖では西暦500年に大洪水が起こったことがわかってきました。中でも西暦500年の洪水は規模が相当大きかった可能性があります。
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    写真2 菅湖、日向湖の洪水堆積物


     周辺の植生も人間活動によって大きく変化してきています。人間活動が入る前はスギやシイ、カシの木が生え、周辺は暗い深い森に覆われていたようです。それが、古墳時代から弥生時代に塩づくりが始まると伐採されていきます。しかし、この活動はさほど大きくなかったようです。平安時代、荘園開発が始まると平野部の森は一気に伐採され、水田に変化していきました。さらに江戸時代、土木工事の影響で荒地が増えたのか、そこにマツが侵入してきたようです。マツの生える景観は江戸時代に形成されました。周辺のコンクリート護岸化も植生に大きな影響を与えました。
     最近、問題になっているヒシですが、水月湖の分析では、近年になるとヒシの花粉が見られなくなってしまっています。ヒシの花粉ができるころの三方湖からの水流が変化したのか、もともと三方湖からヒシの花粉は水月湖に流れていかなくて、水月湖周辺にヒシの生育できる環境があったのか、原因は不明です。

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    写真3 水月湖堆積物で観察された花粉



    北潟湖
     まず、2014年12月に採取した北潟湖5地点の湖底堆積物コアの特徴、入っている火山灰、洪水堆積物について報告がありました。堆積物は均質で、洪水や地震などで大きく乱された層はありませんでした。しかし、火山灰が何層か入っていて、ほとんどは周辺から洪水で流されてきたと考えられます。洪水も、大きなものはなかったという話で、聴講者の方から、北潟湖周辺では川が氾濫するような洪水はないという指摘がありました。最近も、過去にも、川が氾濫するような洪水はなかったようです。
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    写真4 北潟湖の堆積物と火山ガラス


     そして、堆積物の各深度での含水量と粒子サイズの分析や、堆積物の化学的分析で、各層の特徴を明らかにし、3本の堆積物について同じ年代の層を特定しました。これは時代ごとに比較する上で重要であり、各堆積物コアの年代決定の鍵となります。そして、堆積物の特徴や、海にしか存在しないカバザクラという貝が発見されたことで、過去に津波がやってきた可能性を指摘しました。

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    写真5 北潟湖堆積物からでてきた貝、カバザクラ


     周辺の植生の変遷についての報告では、周辺の地理的環境と5本の異なる場所のコアの分析がなぜ必要になってくるか、という理由を説明しました。分析が必要な理由は、地形や人間活動の度合いによって、地域で入ってくる花粉の割合が違ってくるからです。
     そして、人間活動が少なかった山に囲まれた5番目に採取した堆積物の花粉分析の結果を報告しました。人間活動の少ない古代にはシイやカシの深い森に覆われていましたが、人間が山を利用し始め、里山を形成しだすと、森がなくなっていきます。里山の風景は古代のように森に覆われておらず、植物のない寂しい風景ではないか、という考察がなされました。人間活動の活発であった平野に近い地域の堆積物コア(1番目)と比較すると、人間活動が活発になる以前はどちらも照葉樹林の森に覆われましたが、人間活動が入ると、まず、平野部の森が切り開かれます。塩づくりのため森林の大伐採があったようです。12世紀には、平野部の伐採跡に水田が作られていきますが、山の方ではあまり変化がありません。13世紀ごろになると、山に囲まれた5番目のほうでも樹木の花粉が減少し、森林伐採が行われた痕跡が認められます。同時にソバの花粉が増加し、ソバ畑をつくるために森林伐採が行われたようです。
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     写真6 北潟湖堆積物で観察された花粉


    まだまだ、分析は途中です。今後の分析結果に期待してください。
  • 北川淳子
     前回、三方湖の堆積物は縄文時代まで届いたけれど、東京大学の吉田先生との共同研究の目的には1000年ほど足りなかったと書きました。そこで、1991年に安田先生のグループが採取した堆積物を利用することにしました。当時、そのサンプルをオランダのグローニンゲンで年代測定を行った名古屋大学の北川浩之教授から年代を教えてもらい、ちょうど鳥浜貝塚が土砂崩れで埋まり、田井野遺跡に移動し、その後、ユリ遺跡に戻ったあたりまでの花粉分析をしました。
      さて、花粉分析結果ですが、縄文人が鳥浜や田井野にいた時代はとても暖かい穏やかな気候だったようです。スギももちろん多いのですが、カシやシイと言った冬も葉を落とさない常緑の広葉樹が多く生えていたようです。現在も海岸沿いにたくさんみられるモコモコした木です。 この時代、縄文人は相当活発に湖畔で活動していたと見られ、とんでもなく多くの炭片が混じっていました。富栄養化もしていたようで、クンショウモやボトリオコッカスという藻類もたくさん花粉に混じっていました。降水量も多く、湿地林も広がっていたようです。
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    写真1  現在でも見られるシイの林(神子付近) 写真2 スギに混じってシイや落葉樹があります。縄文の昔はこんな感じだったかもしれません。


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    写真3 花粉サンプルにたくさん混じっていたクンショウモとボトリオコッカス


     多雨の時代に大災害が鳥浜を襲います。鳥浜は土砂に埋もれてしまいました。縄文人は、「しかたがない」とでも言ったのでしょうか、縄文博物館の小島さんによると、縄文人は田井野に移って行きました。田井野は北向きの斜面。今でもそうですが、三方湖の北向き斜面は風が強く、現在のように頑丈な建物があったわけでなく、住みにくかったのではと考えられます。しかしながら、温暖な時代だったので、なんとか暮らす事が出来たのでしょう。
     そのあと、なぜかユリ遺跡のほうへ移動したようで、キャンプ地的なところが三方五湖周辺にあちこちあるそうです。花粉分析をしてみると、この時代、花粉が急に少なくなります。スギはもちろん、カシやシイも少なくなり、花粉を数えるのが大変でした。森林の大伐採か、とはじめ思ったのですが、どうもそうではないようで、モダンアナログ法という方法で気候復元をしてみました。そうすると、この時代、年平均気温が現在より5度ぐらい低く復元されました。5度というのは低すぎかもしれませんが、いずれにせよ、相当な寒冷化が起こり、北側の斜面より、南側の斜面へ住居を移し、資源が少なくなったので、あちこちにキャンプ地をつくって、食糧などの獲得に精を出していたのでしょう。
     縄文人、災害にあったら別の住めるところに居を移し、寒冷化が起これば、定住していたのに、移動生活まで始めてしまう。相当、自由な発想の持ち主だったのではないでしょうか。今のように技術もなかったということもありますが、自然の力に逆らわない、環境にあった生活様式を選択していたようです。
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    図1 土砂災害にあった鳥浜縄文人は田井野に移動 図2 寒冷化が起こり、ユリ遺跡や北寺遺跡の南側へ移り住み、多くのキャンプ地をもって生活
    (図1,2とも、縄文博物館 小島氏提供)

     
  • 北川淳子
     12月に北潟湖、3月と4月に三方五湖でボーリング調査をしましたが、年代測定の結果が出てきました。何年とでるかわからないので、とりあえず、できるだけ深いところのサンプルの年代測定を依頼しました。三方五湖周辺では、狙いは縄文時代。1970年に三方湖のほとりの田井地区から発見された田井野貝塚(図1)の時代をまずはターゲットに分析を始めようと、その時代の土器片にこびりついた炭化物も同時に分析を依頼しました。その遺跡の時代は、土器編年によると、縄文早期から前期と若狭三方縄文博物館の小島学芸員が話していました。
     
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    図1 田井野遺跡の位置(赤い○)  


     三方湖は山に囲まれていますが、三方湖側は風が強いせいか、他の時代には居住の痕跡がないそうです。田井野貝塚の時代には、それまで居住していた場所がどうも土砂災害で埋まり、人々が田井野に移り住んだようです。
     私の花粉分析で何がわかるかですが、私も実はまだよくわかっていません。あちこちでがけ崩れが起こっていれば、そういうところでも生えてくる植物が多くなるのでは、と考えていますが、それがわかるほどその種類の花粉が出現するかどうか今のところ不明。希望的観測でわかるはずと思っています。さて、何が出るかはお楽しみなのですが、その時代のサンプルが採取できたかどうかが問題です。

     三方湖については東京大学の吉田先生との共同研究で、東大からお金を出してもらい、ポーランドのポツナンの研究所に依頼していました。結果がやってきました。年代は・・・、土器はしっかり縄文前期。縄文博物館の小島さんが喜んでいました。しかし、残念ながら、私のサンプルは1000年ほど届きません。なにせ手掘りで、三方湖の堆積物、硬くて、若狭高校の生徒さんたちが頑張ってくれましたが、あれ以上掘れませんでした。いや、しかし、それでも縄文です。結果は縄文中期。当初、縄文まで掘れれば、などと言っていたので、成功は成功ですが、縄文時代が長すぎます。これが問題です。手掘りでできないので、仕方がない。ということで、大昔、1991年に安田喜憲教授のグループが採取したサンプルが縄文博に保存されていて、それを利用し、田井野遺跡の時代を再分析してみることにしました。もちろん、春に採取したサンプルも分析します。

     三方湖とは別に、日向湖、菅湖、久々子湖、北潟湖の測定を依頼し、そちらの結果もでてきました。日向湖ですが、以前に原子力規制庁が調査した中の年代をみて、7000年前ぐらいまでいくかな、と思ったら、3000年前弱でした。何かだまされた気分ですが、年代測定結果は結果です。他もそれなりの年代がでています。菅湖は深度3mぐらいで6000年でしたので、三方五湖は過去2000~3000年ほどは地域的な違いが比較でき、水月湖の2014年のサンプルと三方湖の昔のサンプルで鳥浜の時代からの人間活動が復元できそうです。

     問題は北潟湖。製塩遺跡がでているので、その時代前後が復元できると面白いと思ったんですが、あそこはどうなっているのか、3mで鎌倉時代になってしまいました。この結果はまだ古い時代まで遡ったコアで、他は、2~3mで江戸時代。製塩の遺跡の時代が復元できません。とても残念です。すさまじいスピードで埋まっています。100年後には湖がなくなるかもしれません。まだ年代測定していないコアがあるので、そちらも測定しようと考えています。
     
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    写真1 田井野遺跡から出土した土器片(写真は若狭三方縄文博物館提供)。食べ物の残りが炭になって付着している。  写真2 日向湖の堆積物。上部のみ、年縞が認められる。
  • 北川淳子
    3月に日向湖と菅湖、4月に三方湖と久々子湖でボーリング調査を行いました。
    日向湖と菅湖は水深が深いため、深いところでも堆積物が採取できるマッケラスコアラーという道具で堆積物を採取しました(写真1)。久々子湖と三方湖では、手掘りの道具、夏原式ピストンコアラー(写真2)とロシア式ピートサンプラーの両方を使い、採取しました。
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    (写真1)マッケラスコアラー(撮影地は三方五湖ではありません)パイプを押し込んだ後、大きなドラムに空気をため、浮上させます
     
    (写真2)夏原式ピストンコアラー。筒状の部分に堆積物が取れてきます
     
     日向湖は深くて難しい上、当日雨が降り、とても大変でした。なんとか2本のコアを引き上げる事ができました。雨の中、水質調査、湖底の表層の泥の採取も行いました。湖底の泥は、湖底が無酸素のため、硫化水素のにおいがきつく、真っ黒でした(写真3)。また、底に落ちた針金などは黒い物質に覆われていました。面白い事に、中は酸化されることなく、落ちた時の状態のままでした。何はともあれ、2本のコアを採取することができました。
     
     3.jpg(写真3)日向湖から上がってきた湖底の最上部の堆積物。

     
     菅湖では比較的天候に恵まれ、日向湖のように雨に降られることもありませんでした。ここでも水質調査、湖底の表層の泥の採取を行い、マッケラスでコアを採取しました。やはり、底は無酸素状態で、やはり硫化水素のにおいがしました。湖底の表層部分は、年縞らしき縞が確認されました(写真4)。ここではなんとか3本のコアを採取できました(写真5)。
     
     
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    (写真4)菅湖の湖底の最上部の堆積物。よく見ると縞が見えます (写真5)マッケラスコアラーが浮上したところ。菅湖にて
     
     4月、天候に恵まれ、久々子湖と三方湖の調査をしました。こちらは湖が浅く、手掘りで行いました。浅い場合、マッケラスでは採取不可能です。
    夏原式ピストンコアラーでは、手掘りなので2m程度ぐらいまでしかどうも押し込めません。島根大学の瀬戸先生がだいぶ頑張りましたが(写真6)、やはり2m弱しか堆積物は取れませんでした。2m弱では縄文時代まではいきそうにないので、ロシア式ピートサンプラーをその下の堆積物をとるために利用しました。こちらは直径が小さいので、押し込みやすくなっています。なんとか、350cmほどの堆積物の採取に成功しました。
    三方湖の調査では若狭高校の生徒さんたちがたくさん参加しサンプル採取にチャレンジしました。静岡県のふじの国地球環境史ミュージアムの山田准教授の説明を熱心に聞き(写真7)、サンプル採取は成功しました。湖の下の堆積物の固さを十分に体験したようです。このサンプルは、研究所と島根大学、立命館大学の共同で分析をすすめますが、若狭高校の生徒さんもSSHのプロジェクトで利用できるように保存しています。
     
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    (写真6)夏原式ピストンコアラーを湖底に押し込む (写真7)サンプルの採取方法を説明する山田先生とそれを聞く若狭高校の生徒さん



     これらの調査が終わり、今度はサンプルを分ける作業をしました。長いサンプルがたくさんあり、作業は数日かかりました。まだ、分けられていないものもあります。
    堆積物の中で、日向湖のサンプルは年縞が認められました(写真8)。こちらの年縞は水月湖に比べて薄く、わかりにくいものです。これを軟X線で写真をとり、分析をすすめていく予定です。菅湖の堆積物にも年縞があるのでは、と思っていたのですが、最近の堆積物にはどうも形成されていますが、下のほうはないようでした。日向湖も菅湖も、たくさんの葉が挟まれていました。これを年代測定して、過去の環境変遷を解明していきたいと思います。
    久々子湖と三方湖の堆積物は上から下まで均質なのっぺらぼうの堆積物でした(写真9)。30年ほど前の調査では、10mの堆積物で18000年前とでていますので、縄文までサンプルが採取できているのではと思っています。
    楽しい調査が終わり、これから分析をしていかないといけません。その結果は研究発表会で紹介したいと思っています。
     
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    (写真8)マッケラスで採取した日向湖の堆積物の一部。よく見ると年縞が見える (写真9)夏原式ピストンコアラーで採取した堆積物コア
  • 北川淳子

    水月湖のボーリング調査


      この夏、福井県が水月湖のボーリング調査を行いました。この目的は、学術調査はもちろん、世界の地質時計となり有名になった水月湖の年縞を広く一般の方々に見てもらうため、完全に連続した年縞を採取し、展示用に加工することです。この目的は100%以上に達成され、うまくいけば数年後には完全に連続した本物の年縞をご覧になれるかと思います。私はこの調査に少なからず関わりました。

     土の採取についてはプロのボーリング会社の方がこちらの、「歪みのない、ひび割れのない」サンプルを、という要求に答え、多大な努力をしてくださいました。この「歪みのない、ひび割れのない」という条件をクリアすることは、湖底の土の硬さの違いがあったり、様々なもの(火山灰、木片など)が含まれていたりで、非常に難しいものですが、それをみごとに達成していただきました。

     採取された柱状の土(コア)はそのままでは単なる棒です。土は1m程度のパイプに入っています。パイプ自体は1m程度ですので、連続したコアは1つの穴からは採取できません。それで2つ目の穴、3つ目の穴と掘り、抜けている部分を補完するわけです。補完されているかどうかを確認するために、上がってきたコアはその場で中を抜き取り、縞々を確認していきます。その後、展示用、研究用に分けていく作業が水月湖湖畔の遊覧船乗り場駐車場のプレハブで行われました。コアの直径は約8㎝。ボーリング調査には多額の費用がかかるので、採取できたものからできるだけ多くの研究用のサンプルを分ける必要があります。また、展示用のものは本当に壊れることなく分けなければなりません。これを壊れることなく、きれいに切り分けるのも大変難しい作業です。立命館大学の中川毅教授はこれを様々な道具を開発・作成して難関を突破しました。展示用はコアの幅いっぱいに、研究用はそれぞれの目的に合わせた幅で分けていきます。そして、今回の目的で分けたあとの残りは、サンプルが酸化してしまわないように真空パックをして、冷蔵庫に順に入れていきます。

     多くの人の手がかかり、現在、展示用のサンプルは展示用に加工されるのを待ち、研究用のサンプルはまだ冷蔵庫に保管され研究されるのを待っています。水月湖のサンプルは大変学術的に価値の高いものです。年縞があること、年縞の下にも土はたまっていて、それが19万年以上にもなります。過去19万年分もの土をためている湖は少なく、地質時計の世界基準であるこの土をさらに研究することで、世界各地の他の湖沼の土の年代をさらに正確に測定できるようになり、また、過去の気候変動、これからの気候変動の予測ができることが期待できます。

     

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    写真1 水月湖ボーリング調査の筏と櫓。作業員がボーリング作業をしています。
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     写真2 手製の道具でコアを切り分ける立命館大学中川毅教授
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    写真3 ボーリング作業が終わると筏は岸に上げ、解体し、クレーンでトラックに積み込みます。
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     写真4 1か月半、水月湖に浮かべられていたため、多くの生物が筏に付着、または入り込んでいました。
     

    北潟湖ボーリング調査


     水月湖の年縞は貴重なものですが、それだけでは過去の環境をすべて語れません。地域差もあり、それぞれの文化、歴史があります。そこで、水月湖だけでなく、他の湖沼の調査を実施します。もちろん、水月湖のような年縞はありませんが、水月湖の年代が基準となり、他の湖沼も年代が決まっていきます。また、復元された環境を比較することで、人間の活動による環境への影響が見えてきます。そこで、平成26年12月7日~12月10日に北潟湖でボーリング調査を行いました。
     

     天候は悪く、雨が降りましたが、調査は順調に進み、よいサンプルがとれました。
     調査メンバーは次の通りです。
      ・北川淳子(福井県里山里海湖研究所)
      ・篠塚良嗣(立命館大学)
      ・吉田明弘(明治大学)

     北潟漁協の人に船を出してもらいました。船を出していただいた方は、辻下氏(組合長)と山岸氏(理事)です。

     12月7日には調査地点の下調べとして、水深と緯度経度を測定し、最終的なボーリング地点を決定しました。その場所には目印として竹を刺しておきました。
     調査地点は図に示しています。
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     12月8日の朝、福井新聞と県民福井の人に取材を受け、調査の概要を説明した後に、ボーリング調査を始めました。8日と9日で5地点のコアを採取しましたが、地点4は最も上流で、過去の谷の部分であったせいか、底は浅く、170cmまでしか採取できませんでした。もっとも深かったのは地点3でした。地点3では、深さ530cmまで採取できました。しかしながら、年代測定の試料などとれたり、貝層などがはいっていたりして、面白そうなのは地点1でした。地点1はさらに深く掘れないかと2回、掘ってみましたが、2回目もほとんど同じ深さまでしかほれませんでした。地点5は前日の予備調査で下が他よりかなり固かったのですが、どうもこの硬い層は貝の層のようです。江戸時代にはカキの養殖があったということですが、年代測定の結果などでないとはっきりは分かりませんが、ひょっとするとカキの養殖の層かもしれません。

     この2日間に採取された土は現在、研究所の冷蔵庫の中にあり、花粉分析を中心に行い、北潟湖周辺の過去の景観の変化を見て行く予定です。

     この周辺の環境に大きな影響を与えたと考えられる一つの出来事は製塩です。北潟湖近くでは製塩炉が発見され、新聞にもでました。そこで、12月10日には、北潟湖近くの細呂木阪東山遺跡を視察しました。県の埋蔵文化財調査センターの細呂木阪東山遺跡の担当者の白川氏より説明を受けました。残念ながら炉はすでに調査が済みなくなっていました。その代わりに、製塩のためにたくさんの火を炊いた痕ともいえる炭片のたくさん含まれた真黒な平安時代の層が見られました。この活動は北潟湖の土の中に記録されていると考えられるため、分析結果が楽しみです。
     

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    写真1 目印の竹
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    写真2 ロシア式ピートサンプラーによるコアの採取。とても力が要ります。
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    写真3 貝の層を含むコア。江戸時代のカキの養殖の痕跡の可能性。ボーリング地点5より。
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     写真4 黒い平安時代の層

福井県里山里海湖研究所

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