福井県里山里海湖研究所

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  • 石井 潤
     近年、全国各地の湖沼において、浮葉植物であるヒシ属植物Trapa L.の分布面積が著しく増加し、生物多様性や生態系サービスの利用において負の影響を及ぼしているという理由から、その対策が課題になっている事例が多く見られます。
     自然再生推進法に基づく法定協議会である三方五湖自然再生協議会が、自然再生の取組みを行っている三方五湖においても、その1つ三方湖においてヒシTrapa japonica Flerovが2008年以降急速に分布拡大し、その対策が課題となっています。そこで、三方五湖自然再生協議会外来生物等対策部会では、2016年にヒシの管理方針を定めた「三方五湖自然再生事業 三方湖ヒシ対策ガイドライン」(4.9 MB)を作成しました。
     一般的に、ヒシ属植物の対策として、その場所における根絶または低密度化に向けた刈取りが行われます。刈取りの方法としては、植物体を手で引き上げたり道具を使って引き上げる“手刈り”や、水草刈取り船を使った“機械刈り”が用いられています。また、漁業者が自分の船舶に自作した水草刈取り機を装着して刈取りを行っている事例もあります。
     三方五湖自然再生協議会外来生物等対策部会では、2015年から、地元の漁協である鳥浜漁業協同組合の提案により、ヒシの刈取り方法の1つとして、“ワイヤー刈り”を試行してきました。福井県里山里海湖研究所では、2016年に、ヒシの生活史を考慮したワイヤー刈りによる刈取り方法の効果を検証するための実験を行い、その有効性を確認しました。
     そこで、ヒシ対策に取組んでいる現場で役立てられるように、ワイヤー刈りによるヒシの刈取り方法を解説したマニュアルを作成し、公開することとしました。また、ワイヤー刈りによるヒシの刈取り方法の具体的な手順などを紹介する動画を作成しましたので、併せて公開いたします。
     
     『浮葉植物ヒシのワイヤー刈りマニュアル』3.3 MB
     

    ~(動画) 浮葉植物ヒシのワイヤー刈りによる刈取り方法~
     
     ワイヤー刈りによるヒシの刈取り方法を動画でご紹介します。各タイトルをクリックすると、YouTubeにアップロードした動画をご覧いただけます。
     操船者は、鳥浜漁業協同組合の元組合長である増井増一氏です。ヒシの刈取りに使用している小型船舶は、増井氏所有のものです。(2)と(3)の動画は船上で撮影しており、画面が大きく揺れている箇所があるので、ご注意下さい。
     
    (1)ワイヤー刈り装備の水中への導入(14秒)
     (説明)ワイヤー刈り装備をどのように水中に導入しているかを動画でご紹介します。
     【撮影日:2016年9月】
     
    (2)ワイヤー刈り装備によるヒシの刈り取り(54秒)
     (説明)ワイヤー刈り装備を使ってどのようにヒシの刈取りが行われているかを動画でご紹介します。ワイヤーで刈取られたヒシの浮葉が、水中に沈んで見えなくなるのが分かります。動画の後半部分では、ヒシが多量に引っかかったために、ワイヤーが浮力で浮き上がってくる様子が確認できます。
     【撮影日:2017年6月】
     
    (3)ワイヤー刈り装備に引っかかったヒシの除去(2分8秒)
     (説明)ワイヤー刈りによるヒシの刈り取り作業中、ワイヤー刈り装備に引っかかったヒシをどのように除去しているかを動画でご紹介します。動画の後半部分で、ワイヤー刈り装備の一部である鉄棒が曲がっているのが映っていますが、これはヒシの刈取り作業中に障害物に引っかかったときに曲がったものです。多少曲がっていても、刈取り作業は問題なく実施できています。むしろ多少曲がっている方が、最後に、鉄棒とワイヤーをヒシを外しながら船の上に引き上げるときに、作業がしやすいかもしれません。
     【撮影日:2017年6月】
     
    (4)9月に作業を行った事例(2分3秒)
     (説明)ワイヤー刈りは、5~6月に行うことが推奨されますが、それ以外の時期でも実施可能です。この動画では、9月に作業を行った事例をご紹介します。
     【撮影日:2016年9月】
  •  1月に島根大学瀬戸先生と北潟湖の冬の水質調査を、3月に赤尾湿地のボーリング調査をしました。当初、予定していた日は大雪で瀬戸先生が来られなかったので、延期し、1月26日と27日に行いました。26日、あわらの自然を愛する会の河田さんたちと北潟湖の南にある赤尾湿地の下見に行きました。大変天気がよくて、大変スムーズに事が運びました。赤尾湿地は明治時代の地図では北潟湖の一部で、水があったのですが、干拓で現在湿地になってしまっています。その下の土を取り出し、昔、その周辺に生育していた植物の種子を取り出し、育ててみようというのが河田さんたちの計画です。その日は天気が良かったのですが、27日、朝から風がビュービュー吹き、船を出してもらえるのだろうか、と思っていると、北潟漁協の辻下会長は、「大丈夫、でも、さっさと終わらせよう、午後から雨だ」、と、朝から頑張って調査をしました。午前中でなんとか終わらせたのですが、午後、橋で調査していると、どんどん雨風が強まり、メジャーが風で湖に飛ばされ、最後の橋の調査ができませんでした。しかし、他のデータはとれて、夏と冬の結果は北潟湖の調査研究報告会で報告しています。
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    赤尾湿地 雨風をしのぎながらの調査


     3月26日に報告会を開催しましたが、その後、27日に赤尾湿地のボーリング調査をしました。ロシア式ピートサンプラーというもので採取しました。湿地にはカエルの卵が大量にあり、オタマジャクシも大量に発生してました。天気もそこそこで、たくさんのサンプルがとれました。あちこちでサンプルを採取しようという話だったのですが、山に近いところは、砂がたくさん入っているようで、掘れませんでした。それを持ち帰り、現在、冷蔵庫に入っています。果たして、何がでてくるでしょう。
     
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    ロシア式ピートサンプラーで赤尾湿地を掘る みんなでサンプルを取り上げます 採れてきた赤尾湿地の土



     
  • 北川淳子
     3月12日(日)に若狭町で三方五湖の、3月26日(日)にあわら市で北潟湖の研究調査成果の報告会を開きました。北潟湖の報告会ではことのほか多くの方が参加され、大変活発な発言をいただきました。発表の内容を簡単にまとめておきます。

    三方五湖
     東京大学の鈴木氏(3月に博士号を取得し、現在、早稲田大学の助手)は「歴史記録を超える気象台:水月湖年縞刻まれた洪水災害史の解読」との題で発表してもらいました。水月湖の年縞堆積物の洪水記録と気象台などの観測記録を対比して、水月湖の年縞堆積物は正確に洪水を記録して、洪水層の厚さは雨量に比例しているという事を紹介されました。そのことにより、歴史記録にない時代まで遡って三方五湖周辺の洪水の状況についてわかってきそうです。
     島根大学の瀬戸氏は「日向湖における古環境変遷史と過去200年の降水履歴の復元」という題で報告してもらいました。現在の状況から過去に遡って、丁寧に説明していただきました。現在の状況は水温・塩分・濁度・溶存酸素量といった水質調査を行った結果を紹介してもらいました。図示されていて、大変わかりやすいものでした。日向湖の歴史記録では1638年に日向水道が開削されたことで海水になったというはなしでしたが、それ以前から海水湖になっていたということでした。日向湖にも年縞堆積物はあるのですが、水月湖のように何万年も連続はしていません。しかし、上のほうの(最近の)部分ははっきりとした年縞になっていて、江戸時代までカウントしたそうです。三方五湖周辺の降水の特色として、冬の雪による降水と梅雨期と台風期が特異的に多くなります。年縞を詳しくみると、梅雨期と台風期の1年に2回の堆積物を記録している可能性が高いそうです。
     北川は「日向湖の堆積物に残る大水害の痕跡とその植物への影響」というテーマで報告しました。まず、三方五湖周辺ということで、日向湖の分析でなく、三方湖のほうの鳥浜貝塚の終焉について話をしました。鳥浜の終わりの時代も今と同じように気温が高く、降水量が多いので、土砂災害が多く発生し、それを避けて縄文人は活動していたことを紹介しました。そして、昨年度、立命館大学の篠塚氏の発表に、西暦300年、西暦500年と西暦1000年に、菅湖では西暦500年に大洪水が起こったとありましたが、日向湖のほうの洪水のあたりの層を詳細に花粉分析をして、洪水の植物への影響をみてみました。年代は、追加で年代測定したことで昨年度より正確にわかってきて、3世紀半ば、8世紀半ば、15世紀前半となります。水月湖の年縞堆積物にもそれらの洪水が見られます。詳細に花粉分析をすると、3世紀半ばと8世紀半ばの洪水層では、周辺の森が破壊され、その回復に40-50年かかっています。15世紀前半のものでは、低地部は水田であったせいか、森林が大破壊されるという形ではないようです。
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    水月湖の水害について話し始める鈴木氏 熱心に耳を傾ける聴講者


    北潟湖
     島根大学の瀬戸氏は「北潟湖の水質・底質環境の特徴」という題で、8月と1月の北潟湖の水質調査の結果について発表していただきました。北潟湖は湖が橋のところで区切れていて、環境が橋を通過するごとに大きく変化するそうです。レンコンのようだと発表されていました。夏の調査の時、橋を超えるたびに水の色が変化していました。生物生産性では、一番奥側の西南湖は,もっとも生産性が高く,水の流れが悪いそうです。底は夏は温度が低く、酸素がなく、塩分濃度が高いようです。酸素がないため、硫化水素が発生し、真っ黒の泥がたまっています。底にシジミがたくさんいるのですが、大きな個体がほとんどで、シジミの再生産がされているかは不明だそうです。
     立命館大学の篠塚氏は「北潟湖における過去数千年間の古環境変遷史」という題で、堆積物の化学的分析をし、北潟湖の過去の水質変遷を紹介しました。北潟湖では開田橋ができるまで、古くからカキの養殖がされていて、堆積物の中にカキの密集した層が見つかったことは以前に紹介しています。そのカキの層ができた時代は湖が貧酸素であったという結果がでました。貧酸素のためカキが大量に死んだようです。また、北潟湖は汽水湖なのですが、西暦1000年ごろのみ、一時的に湖は淡水化しているようです。後で他の先生方と一緒に話をしていたら、ひょっとすると、湖から海へでる部分が季節風で砂が運ばれふさがれたのではないかという話がでてきました。季節風で砂が運ばれふさがれるのであれば、それは昔から起こっていてもおかしくない話で、その時期だけふさがれるのは変な話です。もう少し年代をはっきり決めないといけないのですが、1000年ごろというと、荘園開発の時代で、水田開発するのに淡水化するのがよくて、毎年、湖と海の間の砂を取り除いていたのを、意図的にやめたのではと勝手に想像しています。
      金沢大学の長谷部氏は「北潟湖の汽水-淡水変化と津波災害の痕跡」という題で発表していただきました。日本海側でも歴史的にみると少なくない地震や津波がやってきています。北潟湖では津波がやってきたのか、堆積物の粒子の粗さや堆積している貝、そして、珪藻(ガラス質の殻をもったプランクトン)の分析で規模はわからないけれど、津波が入ってきた可能性があることを紹介しました。堆積物の粒子の粗さでは津波が入ってきたのでは?という5つの層があり、その層では海の珪藻がたくさん見られたという事です。北潟湖にも津波が入ってくる可能性があります。また、1300年ごろから海水が北潟湖の中心部まで入ってきているという結果が出ていました。1300年頃というと、小氷期と言われる寒い時代に入る時代です。海水準はそれ以前の平安時代の方が高く、この時代は低くなります。海水がこの時期から入るのはおかしな話です。それで、何か人為的に海水をいれたのでは?という話でした。室町時代の後期からカキの養殖をしているという事ですが、それと関わりがあるかもしれません。
     私、北川は「津波?高潮?:北潟湖周辺一時的景観の変化」という題で花粉分析の結果を報告しました。塩づくりで森林がなくなっていき、1100年頃、水田が広がっていく、というのは昨年の話と同じです。しかし、一番海側の堆積物の分析も追加して、海側は江戸時代以前はシダ植物しかないようなはげ山だったという事がわかってきました。それらの結果をよく見ると、何か起こっている痕跡が認められます。まず、天正の地震(1586年)の時の津波の痕跡でないかという変化が花粉で見られました。このぐらいの時代の層の分析では、花粉が全体的に減少するのですが、マツ花粉は減りません。なぜマツのみ減らないのかは不明ですが、周辺の植物が何かで少なくなったのは確かです。また、福井県側ではありませんが、石川県加賀で1712年に農民一揆が起こった記録があります。理由は、塩害や大風で不作が続き、年貢の減免を求めた、というものですが、塩害の痕跡が見つかりました。アカザ科の植物の花粉が増える層があります。アカザ科ですが、このグループの植物は乾燥や塩に強く、海岸沿いでよく見かけられます。その層のみ驚くほど多くのアカザ科の花粉が数えられました。明らかに塩害があったようです。しかし、それも何年も続きません。1年、2年で一揆が起こるほど困窮するとは思えないので、おそらく、その時代、多くの災害に見舞われ、不作が続いたのでしょう。
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    北潟湖の報告会にはたくさんの人に来ていただきました 北潟湖の水質について話をする瀬戸氏
  • 成28年12月11日(日)に美浜町生涯学習センターなびあすにて、明日の例大祭を考える意見交換会が開催されました。
    (主催:明日の例大祭を考える会議・福井県里山里海湖研究所、後援:美浜町・美浜町教育委員会)
    チラシ表
    チラシ裏

     
    プログラム
    開会のあいさつ(彌美神社・高木氏子総代)
    趣旨説明(里山里海湖研究所・中村研究員)
    祭礼学習の発表会映像鑑賞(美浜中央小学校6年)
    獅子舞ミニ講座(追手門学院大学・橋本教授)
    意見交換会(モデレーター:橋本教授)
    閉会のあいさつ(彌美神社・田中宮司)

     
    日の例大祭を考える会議と福井県里山里海湖研究所では、彌美神社(美浜町)の例大祭*の継承や、例大祭・祭礼文化を軸とした地域づくりに関わる活動を昨年よりおこなっています。
    今回の「意見交換会」は、これまで実施してきた地域での「大勉強会**」をふまえ、参加者全員で、例大祭の将来について話し合い、課題を再認識し共有することを目的として開催されました。
    当日はあいにくの天候にも関わらず、彌美神社の氏子の約1割にあたる70名ほどの参加者がありました。
    また、祭礼を軸とした地域づくりに関心をもつ地域外(敦賀市、若狭町、名田庄など)の方々の参加もありました。

    *彌美神社の例大祭: 「5月まつり」「宮代まつり」と呼ばれ親しまれており、当社の縁起を形にしたものといわれ、耳川上流の大日原のヨボの木に御神の御幣が天降り、当社に祀られた。その故事に基づき行われるお祭で、「一本幣・七本幣」を始め「御膳」と呼ばれる稲穂・魚・斧・鎌など農林水産業に関わる物を始め様々な物を象った餅の奉納や一本幣から大御幣にに御霊を移す「幣迎え」、その大御幣を神輿の代わりにして奉納する「幣押し」と呼ばれる神事があり、又「王の舞」(県無形文化財)・「獅子舞」等が奉納され、一日中賑やかに神事が執り行われ多くの参拝者が訪れる。(彌美神社HPより引用)
    **大勉強会:明日の例大祭を考える会議と里山里海湖研究所の共催により、彌美神社例大祭について住民の理解を深めるために、集落ごとに講義形式で開催した勉強会。平成28年度は4回開催。講師は追手門学院大学橋本教授が務めた。


    加者は、7つの班に分かれ「ワークショップ」形式で意見交換を行いました。
    多様な議論をまとめながらリードしたのは、追手門学院大学教授の橋本裕之先生でした。
    橋本先生は、彌美神社の祭礼文化について30年以上も研究し、例大祭には毎年参加されています。
    各班の意見交換は、ファシリテーターがついていたものの、実際は、参加者の積極的な発言により推進されました。
    なかでも、彌美神社崇敬会のメンバーの活躍が大きかったものと思います。
    寒い一日だったにも関わらず、部屋の暖房を切らなければならないほど、熱気にあふれた意見交換がなされました!
     
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    美浜中央小学校6年生の祭礼学習発表会の映像鑑賞
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    総合司会の橋本裕之先生

    論においては、日程の問題や少子高齢化、祭礼の意義が薄れつつあることなどによる、人手不足や参加者の減少という現状のなか、「仕事を休みやすい環境の整備」「例大祭についての勉強会の促進」「祭りの道具の確保」「集落を超えた組織づくり」「内外への広報の推進」など、例大祭を守り伝えていくための意見や課題がたくさん提出されました。
    例えば、勉強会については、幅広い世代が参加する事が出来る工夫や、他の地域から移住してきて祭りの事を知らない人や女性を対象とした勉強会の実施、小学校での祭礼学習の継続、祭りについて分かりやすく教える資料の作成などの課題が挙げられました。
    また、例大祭を軸として地域の絆を強めていくために、世代・性別・集落間の祭りに対する「温度差」や「溝」を埋めるような、幅広いネットワーク形成が必要という課題も出ました。

    礼文化の継承は全国的な問題であり、一般的には、祭りの「簡素化」や「負担軽減」などの消極的な議論がなされるなか、今回の意見交換会では、例大祭の品格を守り後世に伝えることを前提とした、前向きで建設的な議論が展開されました。
    地域の人びとが、いかに例大祭を大切に思い、誇りとしているかが証明されたと思います。
    今回、再認識し共有した「課題」について、これからどのように取り組んでいくかが新たな課題となります。
    地域の皆様の取り組みに、今後も福井県里山里海湖研究所は協力していきます。
     
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    7班に分かれ、まずは意見を書き出す参加者
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    参加者の皆様が議論をリード
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    意見まとめでも活発な議論が展開されました
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    各班の代表者による発表、A班
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    B班
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    C班
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    F班
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    G班
  • 北川淳子
     8月8日と9日に、島根大学の瀬戸先生と香月先生と共同で、北潟漁協の協力のもと、北潟湖の水質と底質の調査をしてきました。湖の北から南にかけて、水温や塩分、酸素、濁度、クロロフィル量などを測っていきました(写真1)。湖はアオコと赤潮が発生していて、透明度が1m以下のところがほとんど。今年は雨が少ないので、発生しやすいそうです。塩尻橋から上流は塩分濃度が低く、アオコが発生し、それより下流は塩分濃度が高く、赤潮が発生していました(写真2~4)。これがくっきり出ていて、見事でした。湖はつながっているのに、どうなっているのか興味がわきます。
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    写真1 船から水質計を下して調査 写真2 発生していたアオコ
     
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    真水を3 水を採取 写真4 場所によってさまざまな色を呈する水

     底質調査のためにエグマンパージ採泥器という道具で、湖底の泥の採取もしました。水質調査では湖の底は酸素が少なく、湖底の泥は真っ黒で臭いだろうと思ったら、そうでもなく、黒いには黒いけれど、臭いは少なめでした(写真5)。仮説としては、この原因は、湖のプランクトンは日中、光合成をして酸素をつくり、底に酸素がいきわたるけれど、夜には呼吸して酸素を使い尽くすために、黒い堆積物になる、というものですが、実際どうなのかはわかりません。夏の暑い時に、朝から晩まで夜通し調査する必要があるそうです。私たちの調査ではそこまでしていません。
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    写真5 エグマンパージ採泥器で採取した湖底の真黒な泥

     結果は、データの整理ができていないので、整理できてからのお楽しみです。
     
  • 北川淳子
     この季節になると、道端にあちこちクズがつるを伸ばしているのを見かけます。日本ではありふれた風景で、昔はこのつるをロープ代わりに使ったり、根からデンプンをとったり、また、薬用(葛根湯)として利用してきました。荒地にはびこり、それなりに邪魔ではあるけれども、日本ではとりあえず有用植物の1つで、空き地なら放置されています。このクズを19世紀後半に日本人が北米に持って行きました。当初は家のフェンスのように利用したり、家畜のえさにしたりしたそうですが、その繁殖力はすさまじく、あちこちに広がり、現在、侵略的外来種に指定されています。ちなみに、クズの花粉は、あれほどたくさん生えているのに、ほとんど湖に堆積していません。個人的には、クズの花の甘い香りが大好きで、クズがなくなったら寂しく思います。
     最近、ケンタッキー州のパインマウンテンというところであった学会に参加してきましたが、ここでもクズの侵略はすさまじいものでした。しかし、日本人にとってなじみのある風景で、山の中にあるだけで、別にそう目くじらたてることもなかろうに、と思うのですが、アメリカ人は侵略されているという気分だそうです。私に、「なぜ日本人はクズを侵略種と考えないんだ?」と聞いてくるアメリカ人も。日本では昔から利用してきて、有用だから、という回答には納得しなかったようです。いろいろ思案したところ、アメリカ人と日本人の思想の違いによるもののように思えてきました。日本人は少々不必要なものがあっても寛容に受け入れる傾向にあるようです。北米では、庭にタンポポが入ってくると、目くじらを立てて引き抜きます。しかし、日本の場合、ああ、タンポポ生えてきた、かわいい、くらいの認識ではないでしょうか。極端な例ですが、北米にはミルクウィードと呼ばれる雑草がありますが、あまりに除去しすぎたために絶滅危惧種になっています。日本人はここまで極端に行動しないと思います。
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    写真1 パインマウンテンで広がるクズ

     さて、学会のあったパインマウンテンですが、アパラチア山脈の一角で、北米ではめずらしく落葉広葉樹の森に覆われていました。ブナと巨大なユリノキがたくさん生え、アメリカでは絶滅危惧種であるクリの木もたくさんありました(写真2)。さて、このクリの木が絶滅危惧種になった理由ですが、日本のクリの木が原因です。1900年ごろ、日本から輸入したクリ材に病原菌がまぎれ、それが広まり、アメリカのクリは絶滅寸前になったそうです。日本のクリはその菌に耐性があり、持っていても問題ないのですが、アメリカのクリには耐性がありません。パインマウンテンではたくさんのクリの木があったのですが、よく見るとみんな若い木でした(写真3)。老樹は病気になりやすいらしく、大きくなる前に、病気でなくても切ってしまうそうです。クリの木の切り株があちこちに見られました。これは日本人的でない、実にアメリカ的な行動と言えそうです。
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    写真2 パインマウンテンの落葉広葉樹林。ユリノキや、ブナ、クリなどが多くみられる。 写真3 パインマウンテンのクリの木。若い木のみが残されている。

     日本でも竹はいろいろ問題を起こしていますが、パインマウンテンにも竹がありました(写真4)。こちらも侵略的外来種です。いつどういう経緯で入ったのかは知りませんが、パインマウンテンの一角に竹ヤブがありました。なかなかいい風景と思ったのですが、現地の人は、竹は困ったものだ、と。学会の期間中の1時間程度、ボランティアで参加者が竹を刈る作業をしました(写真5)。すると、内側が枯れ、外側だけが元気というどうしようもない状態だとわかりました。外から見ると広い土地の一角だけなので、日本人的にはいい感じですが、確かに、内側が枯れて、外へ外へ広がるので、迷惑なものなのだと納得しました。それならば、少しなので、日ごろから管理しておけば公園のよいアクセントになるように思うのですが、芝生のように手入れはせず、迷惑なので、とにかく除去したいようです。人海戦術は有効で、竹やぶの半分がなくなりました。日本の竹ヤブの手入れはこの程度ではなんともならない気がしますが。
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    写真4 学会会場の庭の竹ヤブ。 写真5 ボランティアで竹を除去している。中の方は枯れた竹ばかりが出てきた。

     学会では越前ソバの話をしました。なかなか好評で、寒冷化とソバ栽培の関係がきれいにでているとびっくりしていました。福井にそばを食べ に行きたい、という人が結構いました。
     
  • 北川淳子
     3月13日(日)に若狭町で三方五湖の、3月21日(月)にあわら市で北潟湖の研究調査成果の報告会を開きました。地元の方たちに熱心に聞いていただき、また、質問もたくさんいただきました。報告の内容を簡単にまとめておきます。
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    写真1 三方青年の家での研究報告会


    三方五湖
     まず、現在の三方五湖の水質、湖底の堆積物の状況についての発表がありました。現在、三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖は汽水、日向湖は海水と言われています。三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖では、春と夏の終わりの水質が大きく異なり、海からの水が夏には三方湖あたりまでやってきます。冬には海水が三方湖まで流入することがなく、季節ごとに塩分濃度が異なっています。そして、菅湖と日向湖の湖底には酸素がなく、硫化水素が作られ臭い堆積物がたまっています。この状況がいつ成立したかは、堆積物の地質化学的研究からわかってきました。現在の状況が形成されたのはどうも江戸時代の日向水道と浦見川の開削の時のようです。それまでも変化はありましたが、これらの土木工事は三方五湖の水環境に大きな影響を与え、水の流れも変化させたようです。
     大きな災害も過去にたびたび起こったようです。堆積物の分析から、日向湖では西暦300年、西暦500年と西暦1000年に、菅湖では西暦500年に大洪水が起こったことがわかってきました。中でも西暦500年の洪水は規模が相当大きかった可能性があります。
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    写真2 菅湖、日向湖の洪水堆積物


     周辺の植生も人間活動によって大きく変化してきています。人間活動が入る前はスギやシイ、カシの木が生え、周辺は暗い深い森に覆われていたようです。それが、古墳時代から弥生時代に塩づくりが始まると伐採されていきます。しかし、この活動はさほど大きくなかったようです。平安時代、荘園開発が始まると平野部の森は一気に伐採され、水田に変化していきました。さらに江戸時代、土木工事の影響で荒地が増えたのか、そこにマツが侵入してきたようです。マツの生える景観は江戸時代に形成されました。周辺のコンクリート護岸化も植生に大きな影響を与えました。
     最近、問題になっているヒシですが、水月湖の分析では、近年になるとヒシの花粉が見られなくなってしまっています。ヒシの花粉ができるころの三方湖からの水流が変化したのか、もともと三方湖からヒシの花粉は水月湖に流れていかなくて、水月湖周辺にヒシの生育できる環境があったのか、原因は不明です。

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    写真3 水月湖堆積物で観察された花粉



    北潟湖
     まず、2014年12月に採取した北潟湖5地点の湖底堆積物コアの特徴、入っている火山灰、洪水堆積物について報告がありました。堆積物は均質で、洪水や地震などで大きく乱された層はありませんでした。しかし、火山灰が何層か入っていて、ほとんどは周辺から洪水で流されてきたと考えられます。洪水も、大きなものはなかったという話で、聴講者の方から、北潟湖周辺では川が氾濫するような洪水はないという指摘がありました。最近も、過去にも、川が氾濫するような洪水はなかったようです。
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    写真4 北潟湖の堆積物と火山ガラス


     そして、堆積物の各深度での含水量と粒子サイズの分析や、堆積物の化学的分析で、各層の特徴を明らかにし、3本の堆積物について同じ年代の層を特定しました。これは時代ごとに比較する上で重要であり、各堆積物コアの年代決定の鍵となります。そして、堆積物の特徴や、海にしか存在しないカバザクラという貝が発見されたことで、過去に津波がやってきた可能性を指摘しました。

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    写真5 北潟湖堆積物からでてきた貝、カバザクラ


     周辺の植生の変遷についての報告では、周辺の地理的環境と5本の異なる場所のコアの分析がなぜ必要になってくるか、という理由を説明しました。分析が必要な理由は、地形や人間活動の度合いによって、地域で入ってくる花粉の割合が違ってくるからです。
     そして、人間活動が少なかった山に囲まれた5番目に採取した堆積物の花粉分析の結果を報告しました。人間活動の少ない古代にはシイやカシの深い森に覆われていましたが、人間が山を利用し始め、里山を形成しだすと、森がなくなっていきます。里山の風景は古代のように森に覆われておらず、植物のない寂しい風景ではないか、という考察がなされました。人間活動の活発であった平野に近い地域の堆積物コア(1番目)と比較すると、人間活動が活発になる以前はどちらも照葉樹林の森に覆われましたが、人間活動が入ると、まず、平野部の森が切り開かれます。塩づくりのため森林の大伐採があったようです。12世紀には、平野部の伐採跡に水田が作られていきますが、山の方ではあまり変化がありません。13世紀ごろになると、山に囲まれた5番目のほうでも樹木の花粉が減少し、森林伐採が行われた痕跡が認められます。同時にソバの花粉が増加し、ソバ畑をつくるために森林伐採が行われたようです。
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     写真6 北潟湖堆積物で観察された花粉


    まだまだ、分析は途中です。今後の分析結果に期待してください。
  • 北川淳子
     前回、三方湖の堆積物は縄文時代まで届いたけれど、東京大学の吉田先生との共同研究の目的には1000年ほど足りなかったと書きました。そこで、1991年に安田先生のグループが採取した堆積物を利用することにしました。当時、そのサンプルをオランダのグローニンゲンで年代測定を行った名古屋大学の北川浩之教授から年代を教えてもらい、ちょうど鳥浜貝塚が土砂崩れで埋まり、田井野遺跡に移動し、その後、ユリ遺跡に戻ったあたりまでの花粉分析をしました。
      さて、花粉分析結果ですが、縄文人が鳥浜や田井野にいた時代はとても暖かい穏やかな気候だったようです。スギももちろん多いのですが、カシやシイと言った冬も葉を落とさない常緑の広葉樹が多く生えていたようです。現在も海岸沿いにたくさんみられるモコモコした木です。 この時代、縄文人は相当活発に湖畔で活動していたと見られ、とんでもなく多くの炭片が混じっていました。富栄養化もしていたようで、クンショウモやボトリオコッカスという藻類もたくさん花粉に混じっていました。降水量も多く、湿地林も広がっていたようです。
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    写真1  現在でも見られるシイの林(神子付近) 写真2 スギに混じってシイや落葉樹があります。縄文の昔はこんな感じだったかもしれません。


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    写真3 花粉サンプルにたくさん混じっていたクンショウモとボトリオコッカス


     多雨の時代に大災害が鳥浜を襲います。鳥浜は土砂に埋もれてしまいました。縄文人は、「しかたがない」とでも言ったのでしょうか、縄文博物館の小島さんによると、縄文人は田井野に移って行きました。田井野は北向きの斜面。今でもそうですが、三方湖の北向き斜面は風が強く、現在のように頑丈な建物があったわけでなく、住みにくかったのではと考えられます。しかしながら、温暖な時代だったので、なんとか暮らす事が出来たのでしょう。
     そのあと、なぜかユリ遺跡のほうへ移動したようで、キャンプ地的なところが三方五湖周辺にあちこちあるそうです。花粉分析をしてみると、この時代、花粉が急に少なくなります。スギはもちろん、カシやシイも少なくなり、花粉を数えるのが大変でした。森林の大伐採か、とはじめ思ったのですが、どうもそうではないようで、モダンアナログ法という方法で気候復元をしてみました。そうすると、この時代、年平均気温が現在より5度ぐらい低く復元されました。5度というのは低すぎかもしれませんが、いずれにせよ、相当な寒冷化が起こり、北側の斜面より、南側の斜面へ住居を移し、資源が少なくなったので、あちこちにキャンプ地をつくって、食糧などの獲得に精を出していたのでしょう。
     縄文人、災害にあったら別の住めるところに居を移し、寒冷化が起これば、定住していたのに、移動生活まで始めてしまう。相当、自由な発想の持ち主だったのではないでしょうか。今のように技術もなかったということもありますが、自然の力に逆らわない、環境にあった生活様式を選択していたようです。
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    図1 土砂災害にあった鳥浜縄文人は田井野に移動 図2 寒冷化が起こり、ユリ遺跡や北寺遺跡の南側へ移り住み、多くのキャンプ地をもって生活
    (図1,2とも、縄文博物館 小島氏提供)

     
  • 石井 潤

     最近、テレビなどでドローンという言葉をよく耳にします。ドローンは、命令を受けて自律飛行する飛行物体のことを指し、別の用語のUAV(Unmanned aerial vehicleの略:無人飛行機)と同義に使われることもあります。テレビなどでは、主にマルチコプターを指して、ドローンという言葉が用いられているように思います。マルチコプターは、ヘリコプターの1種であり、ローター(回転翼)が3つ以上の回転翼機のことを指します。今年の夏と秋、慶應義塾大学一ノ瀬友博研究室と清木康研究室によるUAVを用いた空撮(上空から地上の写真を撮影すること)の機会に同行させていただきました。そこで、そのときの写真を参照しながら、UAVによる写真撮影とはどういうもので、どのように役に立つのか、その利用可能性について紹介したいと思います。

     UAV(ドローン)には、大別して2タイプがあります。1つは、上述のマルチコプタータイプです(写真1:清木研究室所有のInspire 1)。ローターの数が4つの場合はクワッドコプター(機種の例:Phantom 3、Inspire 1など)、6つの場合はヘキサコプター(機種の例:Hornet、Boomerang、Spider、Trimble ZX5など)、8つの場合はオクトコプター(機種の例:X1000)と呼びます。もう1つは、飛行機のような翼をもった固定翼タイプです(写真2:一ノ瀬研究室所有のeBee/その他の機種の例:Trimble UX5、Gatewing X100)。
     

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    写真1. マルチコプタータイプのUAV(例.Inspire 1) 写真2. 固定翼タイプのUAV(例.eBee)


     いずれのタイプのUAVも、備え付けられたカメラで上空から地上を撮影することができますが、その特徴は異なります。マルチコプタータイプのUAVは、飛行可能時間が概ね20分程度までであるのに対して、固定翼タイプのUAVは、概ね30~50分程度です。飛行可能時間が長くなるとそれだけ長い距離を飛行できるので、固定翼タイプのUAVの方がより広い範囲の地上を撮影できるということになります。実際に、固定翼タイプのeBeeは、1回の飛行で約150 ha(1.5 km2)の範囲を撮影できるのに対して、マルチコプタータイプのUAVでは数百mの範囲に限られます。eBeeは完全自律航行を行い、自動で飛行しながら垂直方向(真下方向)の写真撮影を行う点も大きな特徴の1つです。eBeeは手動での操作をほとんど行う必要がありません。写真3は、eBeeで撮影された福井県里山里海湖研究所付近の写真です。写真の左やや下側には、三方湖の湖面に浮かぶ浮葉植物ヒシのロゼット(葉っぱの集まり)が映っており、小さいロゼットの集まりを判別することができます。1回の飛行で、鮮明な写真を広い範囲にわたって撮影するeBeeの能力には、とても驚きました。
     

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    写真3. eBeeで撮影された福井県里山里海湖研究所付近の写真  


     一方、マルチコプタータイプのUAVは、飛行可能時間は限られているものの、手動による操作によって特定の対象を多方向から詳細に写真撮影することができます。機種によって、垂直方向や水平方向、斜め方向からの柔軟性の高い写真撮影を行うことができます。写真4~6は、Inspire 1によって撮影されたものですが(いずれも、慶應義塾大学清木研究室 古瀬達哉君による撮影)、被写体を自在に撮影するその能力には、やはりとても驚きました。後述しますが、このように自在な写真撮影は、撮影者の技量によるところも大きいと言えます。
     

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    写真4. Inspire 1で撮影された垂直方向の写真 写真5. Inspire 1で撮影された水平方向の写真
     
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    写真6. Inspire 1で撮影された斜め方向の写真  
     

     マルチコプターでは、これらの写真撮影に加えて、動画撮影が可能な機種があることも特徴です。また基本的に、UAVの動作はGPSを用いてリアルタイムで計測される位置情報に基づいて制御されますが、マルチコプターの中には、位置情報が取得できない条件でも飛行する能力をもった機種があります。この機能があれば、GPSが利用できないような橋の下や室内環境でも、精度の高い写真撮影を行うことが可能となります。さらに、マルチコプターの中には、eBeeと同じように、自動で飛行し写真撮影を行う能力をもった機種もあります。
     
     以上をまとめると、固定翼タイプのUAVは、より広域の範囲を対象とした垂直方向の写真撮影を行い、詳細な土地被覆(水田や森林、湖、川、住宅地の配置や面積など)を把握するのに威力を発揮すると言えます。具体的には、自然環境の変化をモニタリングしたり、洪水などの自然災害が発生した場合、どこでどのような被害が生じたのかを把握することなどに利用できると考えられます。一方、マルチコプターは、特定の場所の詳細な写真撮影または動画撮影を行う際に有用であり、利用用途として、特定の範囲の環境調査や、やはり自然災害時に利用するなら各災害発生場所の詳細な情報の取得などが考えられます。
     
     固定翼タイプとマルチコプタータイプのUAVを利用する際の大きな違いとして、上述したように、手動での機体の操作方法が挙げられます。前者では自動飛行を行い、主な操作は離陸させる操作のみです。飛行時は、パソコンなどで機体の状態をモニターすることができます。バッテリー残量の不足や飛行に問題が生じたときは、eBeeの場合、自動的に帰還する設定になっており、帰還命令を出すこともできます。着陸時は、飛行機と同じように着陸態勢に入り、胴体着陸します。注意点として、機体本体が電線などを識別し回避する能力をもっていないため、事前に障害物がない飛行ルートを選んでおく必要があります。離発着場所は、GPSに誤差が生じることも考慮すると、50 m×50 m程度の障害物のない空間(例.小学校のグランド、休耕田など)を選ぶ必要があります。

     マルチコプタータイプのUAVは、離陸から飛行、写真撮影、着陸まで、手動によって操作するために、操作技術の習得が必要になります。操作技術に習熟するまでに操作ミスにより墜落した事例が報告されており、安全な場所での一定以上の練習が不可欠と言えます。操作ミスの原因は、操作の不慣れに加えて、予想外の気流や、遠方での飛行状況の視認の困難、電波の送受信の障害によるコントロールの不能などが挙げられます。離発着場所については、垂直方向の移動ができるため固定翼タイプのUAVのような広い空間は必要とせず、操作技術が上達すれば写真6のような比較的限られた場所での離発着も可能です。
     
     固定翼タイプとマルチコプタータイプのUAVのいずれにおいても、撮影された複数枚の写真を合成して1枚の写真にしたい場合、付属のソフトウェアがなければ、別売りのSmart3DcaptureやPix4Dmapper、Photoscanなどのソフトウェアが必要になります。Smart3DcaptureやPix4Dmapper、Photoscanには、三次元画像を作成する機能もあります。
     
     UAVには、以上のような特徴以外にも、機種ごとに様々な機能があり、それらが値段の違いに反映されています。もし購入を検討する場合は、利用目的は何か?、離発着場所が確保できるか?、マルチコプターの場合操作を練習する場所があるか?など、多様な視点から検討する必要があると考えられます。平成27年9月には航空法の一部が改正され、12月からは、「無人航空機の飛行ルール」(国土交通省:「無人航空機(ドローン・ラジコン等)の飛行ルール」、http://www.mlit.go.jp/koku/koku_tk10_000003.html)が適用されることになりました。今後、飛行ルールを順守した安全な利用のもと、多様な分野での活躍が期待されます。

     
  • 北川淳子
     12月に北潟湖、3月と4月に三方五湖でボーリング調査をしましたが、年代測定の結果が出てきました。何年とでるかわからないので、とりあえず、できるだけ深いところのサンプルの年代測定を依頼しました。三方五湖周辺では、狙いは縄文時代。1970年に三方湖のほとりの田井地区から発見された田井野貝塚(図1)の時代をまずはターゲットに分析を始めようと、その時代の土器片にこびりついた炭化物も同時に分析を依頼しました。その遺跡の時代は、土器編年によると、縄文早期から前期と若狭三方縄文博物館の小島学芸員が話していました。
     
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    図1 田井野遺跡の位置(赤い○)  


     三方湖は山に囲まれていますが、三方湖側は風が強いせいか、他の時代には居住の痕跡がないそうです。田井野貝塚の時代には、それまで居住していた場所がどうも土砂災害で埋まり、人々が田井野に移り住んだようです。
     私の花粉分析で何がわかるかですが、私も実はまだよくわかっていません。あちこちでがけ崩れが起こっていれば、そういうところでも生えてくる植物が多くなるのでは、と考えていますが、それがわかるほどその種類の花粉が出現するかどうか今のところ不明。希望的観測でわかるはずと思っています。さて、何が出るかはお楽しみなのですが、その時代のサンプルが採取できたかどうかが問題です。

     三方湖については東京大学の吉田先生との共同研究で、東大からお金を出してもらい、ポーランドのポツナンの研究所に依頼していました。結果がやってきました。年代は・・・、土器はしっかり縄文前期。縄文博物館の小島さんが喜んでいました。しかし、残念ながら、私のサンプルは1000年ほど届きません。なにせ手掘りで、三方湖の堆積物、硬くて、若狭高校の生徒さんたちが頑張ってくれましたが、あれ以上掘れませんでした。いや、しかし、それでも縄文です。結果は縄文中期。当初、縄文まで掘れれば、などと言っていたので、成功は成功ですが、縄文時代が長すぎます。これが問題です。手掘りでできないので、仕方がない。ということで、大昔、1991年に安田喜憲教授のグループが採取したサンプルが縄文博に保存されていて、それを利用し、田井野遺跡の時代を再分析してみることにしました。もちろん、春に採取したサンプルも分析します。

     三方湖とは別に、日向湖、菅湖、久々子湖、北潟湖の測定を依頼し、そちらの結果もでてきました。日向湖ですが、以前に原子力規制庁が調査した中の年代をみて、7000年前ぐらいまでいくかな、と思ったら、3000年前弱でした。何かだまされた気分ですが、年代測定結果は結果です。他もそれなりの年代がでています。菅湖は深度3mぐらいで6000年でしたので、三方五湖は過去2000~3000年ほどは地域的な違いが比較でき、水月湖の2014年のサンプルと三方湖の昔のサンプルで鳥浜の時代からの人間活動が復元できそうです。

     問題は北潟湖。製塩遺跡がでているので、その時代前後が復元できると面白いと思ったんですが、あそこはどうなっているのか、3mで鎌倉時代になってしまいました。この結果はまだ古い時代まで遡ったコアで、他は、2~3mで江戸時代。製塩の遺跡の時代が復元できません。とても残念です。すさまじいスピードで埋まっています。100年後には湖がなくなるかもしれません。まだ年代測定していないコアがあるので、そちらも測定しようと考えています。
     
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    写真1 田井野遺跡から出土した土器片(写真は若狭三方縄文博物館提供)。食べ物の残りが炭になって付着している。  写真2 日向湖の堆積物。上部のみ、年縞が認められる。

福井県里山里海湖研究所

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